Photo by Pixabay

未来学者は間違っている 私たちの知能の座は「ゲノム」だった

東大教授にお題エッセイを頼んでみた
好評シリーズ「東大教授に無茶ぶりで『お題エッセイ』を頼んでみた」、今回のお題は「身体性」。佐倉統先生の筆は、AIの進化を語る未来学者たちが、まさに身体性を軽視しているために重大な誤りを犯していると警告する──。

わずか3ページで文字が脳をハッキング

アルゼンチンの作家フリオ・コルタサル(1914ー1984)の短編に「続いている公園」というのがある『悪魔の涎・追い求める男 他八篇 コルタサル短篇集』岩波文庫、『遊戯の終わり』〈こちらも〉岩波文庫に収録)

文庫本でわずか3ページの、超超短編。だがこれが超超名作なのだ。恐ろしいほどの鋭利さをもって、小説内の世界と現実の世界をつなぐ。

文学作品が他ならぬVR/ARの先駆けであることを印象的に提示し、「小説とは文字による脳のハッキングである」という円城塔の発言を彷彿とさせる(円城塔「小説と人間の間で起こっていること」5: Desigining Media Ecology, No. 9

紙に印刷された文字の世界が、読み手であるあなたを含む生々しい世界に、一瞬にして転化される。身体をもたない情報が、まるで舞台の早替えのようにあっという間に身体性を身に纏(まと)う。身体性を身に纏うというのも変な表現だけど。

未読の方は、是非お読みいただきたい。たった3ページだからすぐ読めます。

フリオ・コルタサルフリオ・コルタサル(1969年撮影) Photo by Getty Images

この作品が示しているのは、小説内の仮想世界と小説外の現実世界とは、実は連続してつながっているということだ。

普通は、両者は別々に進行するというのが暗黙の前提だ。多くの小説や物語はそういう風に作られている。

だがコルタサルは、その暗黙の前提を鮮やかに破ってみせる。このような試みは他にもいくつかあるけれども、コンパクトさと瞬発力の双方で、コルタサルがベストだと思う。

AIに身体は「ある」

情報の世界と現実世界が、実は身体性を介して続いている。これは、人工知能(AI)やロボットを考えるときに、とても大事な視点だと思う。

しばしばぼくたちは、AIには身体はないと考えがちだが、そうではない。AIは複雑なコンピュータ・プログラムだから、そのパフォーマンスはアルゴリズムの制約やプログラム言語の特性に依存する。AIにはAIの身体があるのだ。

だけど、AIが人類を超えるとか、人類はAIに支配されるといった主張をしている人たちは、AIの身体性に無頓着なようだ。身体とは独立した、論理と抽象化こそが「知能」だと思っているのだ。

たとえば、「シンギュラリティ」という用語を広めたアメリカの未来学者レイ・カーツワイルはこう書いている。

レイ・カーツワイル Photo by nrkbeta / Flickr

「機械の知能は、設計とアーキテクチャが完全に自由だ(つまり、ニューロン間結合の切り換え速度が遅いとか、頭蓋骨の大きさという制限があるとかといった、生物学的な限界の制約を受けない)。そのうえ、つねにパフォーマンスが一定している」(『シンギュラリティは近い』NHK出版、小野木明恵ほか訳、キンドル版 No.686-688より)

いくらなんでもこれは楽天的に過ぎないか。

なぜ機械の知能には制限がないのか? 生物学的な制約はなくても機械的な制約があると考えるのが普通だろう。

たとえば、コンピューターが活動しているときに放出する熱量は生物の比ではない。この処理をどうするのか。

それにぼくのiPhoneやMacBookはときどきハングアップする。とてもじゃないが「パフォーマンスが一定している」なんて言えない。

Mac程度の複雑さのシステムでもそうなのに、はるかに複雑なAIが、そうそういつでも一定したパフォーマンスを維持できるのは難しいんじゃないか。

機械が機械的に一定のペースで動き続けるなんて、幻想だろう。