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裏切りと騙し合いの連続…三角大福中「男たちの権力闘争」の壮絶時代

これぞ政治の醍醐味

まるでドラマのように面白かった。表と裏、騙し騙され、裏切り寝返り。田中六助、二階堂進、園田直、山下元利……脇を固める側近にも何とも言えない味があった。

「角福」から「大福」へ

戦後の日本政治で最も激烈な権力闘争として語り継がれる「角福戦争」と、その延長の「大福戦争」。ルーツは、佐藤栄作総理が、台頭する田中角栄(1918年~'93年)と福田赳夫(1905年~'95年)を競わせながら、自らの長期政権を続けたことにあった。

'72年5月に沖縄が返還されたことで、7年8ヵ月に及んだ佐藤政権が終結。7月5日に、自民党総裁選挙が行われた。

福田赳夫氏 Photo by GettyImages

佐藤が「後継者」に推す福田は「上州(群馬県)の天才」と仰がれ、東大法学部を首席卒業。国家公務員試験と司法試験(高等文官試験)も全国トップで合格し、大蔵省(現・財務省)主計局長を経て政界入りした。吉田茂、岸信介、池田勇人、佐藤栄作と続いた戦後の「官僚派」の継承者だ。

これに敢然と挑戦したのが、高等小学校しか出ていない田中角栄。39歳で郵政大臣に就任したのを始め、佐藤内閣で大蔵大臣(現・財務大臣)、通産大臣(現・経産大臣)を歴任した実力者だった。

田中角栄氏 Photo by GettyImages

霞が関でいまだに語り継がれているのが、「角栄の心配り」である。財務官僚が明かす。

「OBたちの話によれば、角栄大臣は部下たちの誕生日や出身地、経歴、趣味、家族関係などを丸暗記していた。そして廊下で若い官僚とすれ違っても、『おっ、君の奥さんは今月、誕生日だったな。うまい物でも食わせてやれ』と言って、ポケットから1万円札をポンと渡す。

こんなことを日々やられるものだから、最初は『小卒大臣』とバカにしていた官僚たちも、誰もが『角栄ファン』になっていったそうです」

角栄の権力の源泉は、カネだった。共同通信記者として取材に当たっていた政治ジャーナリストの野上忠興氏が述懐する。

「'72年7月の総裁選では、福田、田中の他にも、大平正芳(1910年~'80年)と三木武夫(1907年~'88年)が出馬しましたが、カネが乱れ飛び、ウイスキーの箱に入れて渡すと言われていました。実際、議員事務所に行くとウイスキーの空き箱を見つけ、『あの中に札束がいくら入るんだ』と噂したものです」

総裁選は事実上、「福田vs.田中」の一騎打ちだったが、キャスティングボートを握った大物政治家が二人いた。

一人は、田中と当選同期で、東大を卒業し、海軍主計中尉出身の中曽根康弘(1918年~)である。自派を率いて総裁選出馬に意欲を見せていたが、結局出馬しなかった。『週刊新潮』(同年7月8日号)は「田中から中曽根に、支持の見返りに7億円が渡った」とスッパ抜いた。

日和見的な性格から後に「風見鶏」のニックネームがついた中曽根は、この時、「軍艦を左に進める時は、まず右に舵を切ってから左に大きく切るものだ」と名言(迷言?)を吐いて煙に巻いた。

表では田中の軍門に下ったかのように見えた中曽根だったが、総裁の椅子を機が熟すまで待ち続け、それまでは大派閥に「貸し」を作る胆力を持ち合わせていた。

もう一人のキーパーソンは、大平である。池田勇人直系の「宏池会」を率いる大平は、大蔵省出身だが、東大法学部ではなく東京商科大学(現・一橋大学)を卒業しており、「香川の鈍牛」と呼ばれる苦労人だった。

新人議員の時代から、議員会館の事務所が隣同士だった田中を慕い、「決選投票に残れなかったら応援する」と、田中と密約を交わしていた。

予備選挙の結果は、田中156票、福田150票、大平101票、三木69票で、田中と福田が決選投票に臨んだ。

決選投票では、中曽根派と大平派、それに三木派まで田中支持に回った結果(三木は論功行賞で副総理を射止めた)、282票対190票で、田中総裁が誕生したのである。

「当初、本命視されていた福田は、群馬の同郷の後輩である中曽根にも、大蔵省の7年後輩である大平にも、裏切られた。後に安倍晋太郎(福田の子分で安倍晋三総理の父)が、『オヤジさん(福田)はケチだったから負けたんだよ』とボヤいていました」(野上氏)