「身体」と「機械」に境界はあるのだろうか? ひとつの思索と答え

東大教授にお題エッセイを頼んでみた
水越 伸 プロフィール

彼の身体論の意義は多くが認めるところだが、彼が情熱を賭けた身の構造モデルが十分なインパクトを与えたかといえばそうではなかったのではないか。

従来の読者にとっては、身体と精神は不可分であり、身において両者は結びついているという、なんとなくヒューマニスティックな認識だけで十分だったのであり、市川の本のタイトルでもある身の構造のモデル化まで理解もできず、求めてもいなかったのではないか。

日本の思想史や哲学史を見渡すだけの十分な見識は持ち合わせていないが、私はそう思っている。

身体と機械の境界を軽々と越える

しかし2019年現在、私にとって市川浩は新しい。人工知能やロボットの問題に、まともに答えうる数少ない哲学ではないだろうか。

彼は身という大和言葉を用いながら、妙な日本主義に陥らない。文系にありがちな技術や工学を敵とみなすような態度も取らない。

市川自身、クルマが好きだったようで、1990年に出版されたインタビュー集では、東洋タイヤの技術者やドライバーたちと身体の拡張装置としてのクルマ、タイヤについて子細に語り合い、身体と物質、機械の境界を軽々と越えて議論している。またロボットやニューロコンピュータのなかに人間の本質を見ている。

市川はあくまで錯綜体としての身をとらえようとしたのであり、心身二元論で安全地帯に切り分けられ、確保された精神や意識主体としての人間を守るような態度は取らなかった。

ちなみに「錯綜体」の生成過程は「星雲状複合体(ネビュラ・コンプレックス)」として概念化されているが、それはドゥルーズとガタリが「リゾーム」として示したものよりもプラグマティックな拡がりを持っているのではないだろうか。

フランス現代思想の多くが思弁に留まるのに対し、市川の議論はエンジニアリングやデザインに向けて明るく開かれていて、今話題のオブジェクト指向実在論やソフトウェア・スタディーズなどを先取りしているところが多い。

市川浩の概念図筆者が手書きした市川浩(1993年)p.102ページの図。濃紺部分は原図、赤色部分は筆者加筆。
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新たな心身二元論にあらがうために

現在のスキー人口はピーク時の1998年に較べて半分以下まで減ったという(観光庁調べ)。80年代前半に300万台前後あったバイクの国内販売台数は、2017年現在35万台程度まで減少した(日本自動車工業会調べ)。

景気低迷によってかつて流行りすぎていたものが減り、少子高齢化も進んだためだろうが、それにしてもすごい減り方である。

身体論の観点からすると、この急減少はたんにスキーやバイクのブームが去ったという以上の意味を含んでいそうだ。

現在、マラソンやダイエットをする人々は増えている。いずれにおいても、我々の生身が対象となっている。

80年代とは較べられないくらいにデジタル情報化が進展し、その分、人々が身体を大切に思いはじめた、我が身こそが確からしい私だと思いはじめたともいえるだろう。

しかしそれは一方で、人間と機械が織りなす錯綜体を操作する楽しみや、身体と機械がともに系をなす市川浩的な哲学の前線を狭めることになってはいないか。

錯綜体の問題は忘れられ、人間とは身体であり、余暇でそれを鍛え、健康に暮らすことは幸せだ──といった平板なイデオロギーが一般化する。一方で労働や生産は機械の側、ソフトウェアやコンピュータのブラックボックスの中で駆動することと了解される。

マラソンやダイエットのブームとAIブームという一見まったく異なることがらの奥には、このような新たな心身二元論があるのではないか。

パラリンピックの選手と道具の関わりや、eスポーツはスポーツなのかといった議論には、そのような新たな心身二元論への対抗力が潜んでいる。

しかしそれらの例に頼らずとも、私たちはすでに「デジタルと機械と我が身の錯綜体」へと化してきたのだ。そのことから目をそらしてはならない。

【参考・引用文献】
・市川浩『〈身〉の構造 身体論を超えて』(講談社学術文庫、1993年。底本は1984年)
・市川浩『〈知〉と〈技〉のフィールド・ワーク 現場の思考』(思潮社、1990年)
・H・R.・ギーガー著、山形浩生訳『ネクロノミコン1』(河出書房新社、2005年)
・水越伸「高速移動機械」(浦達也・松村洋・宇佐美亘『感覚の近未来 浮遊するポストモダン』新曜社、1986年)

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