「身体」と「機械」に境界はあるのだろうか? ひとつの思索と答え

東大教授にお題エッセイを頼んでみた
水越 伸 プロフィール

結婚して子どもが生まれ、バイクからクルマに乗り換えたとき、運転という行為において人間の割合が大幅に減り、自分が機械に組み込まれてしまったと強く感じた。

しかしバイクを降りて四半世紀もクルマに乗り続けていると、クルマの運転もまた、機械と人間が複合した「高速移動機械」の駆動過程だと感じる。

人々が運転に快感を覚え、洗車や車内装飾を楽しみ、廃車するときに涙ぐむのは、クルマと人間が「物心二元論」で分けられるものではなく、クルマが身の一部、「身内」になっているからであろう。

20世紀の人間にとってクルマは自己=我が身の拡張装置だった。自動運転の未来を論じる際、エンジニアたちはこの点を忘れてはならない。

ドライブコースPhoto by Jack Anstey on Unsplash

「身」を介して世界を形づくる人間

市川浩に戻ろう。

『〈身〉の構造』は、大和言葉を用いて身近な事例から説き語り始めるので、わかりやすいと思って気安い気持ちでいると、その中身は徐々に体系的な理論へと展開しはじめ、読者自身が我が身をめぐる想像力を研ぎ澄ませながら読み進めないと、かなり手強い。

彼は身が静的な構造ではなく動態的な「系」をなしており、それがどのような要素と特性を持ったものかをモデル化していく。

そのモデル化への情熱は、たとえばよく似た立ち位置のはずの鷲田清一などとも著しく異なっていて、まるでビジョンをかたちにすることが仕事の建築家やデザイナーのようだ。

一連のモデルの基本には「身分け」という概念がある。

私たちは我が身を用いて世界を分節化し、操作すると同時に、他者、機械、道具、風土などさまざまなモノやコトによって枠づけられ、その相互作用によって存在しているというのだ。

「錯綜体」としての私たち

そして「身分け」によって世界に存在する私たちの存在を、「錯綜体(implexe)」と名付ける。

市川によれば、この概念はもともとポール・ヴァレリーが生みだしたもので、その意味を拡げて使っているという。

「錯綜体」は、世界のさまざまな状況の中で絶えずそのあり方を変える身のモデルである。ここでいう錯綜とは、こんがらがっていることではなく、ものごとの多元性、複合性を意味している。

「錯綜体」としての私たちは、意識して律することができるシステム、無意識のうちに動いているシステム、さらには記号や機械、メディアなどに「仲だち」されて生じるシステムが統合されて成り立っている。

スキーをする私は、腰や膝、足首を操作したり、刻一刻と変化する斜面の様子を見極めるなど、多様な要因を総合的に意識するシステムである。その時、私の体内では血液濃度や体温を一定に保つホメオスタシスがたえず、無意識のうちに動いている。さらにスキーやブーツ、ストックなどが身体の拡張装置として、「仲立ち」として働く。

これら三つのシステムは、急斜面に入ることを意識すれば両脚の血管が拡張し、ストックを手の延長として操作するというように、たがいに分かちがたく結びつき、錯綜体としての私を構成する。

市川はさらに錯綜体が、現実に起こっている出来事と起こりうるかもしれない出来事をともに含み込んでいるとする。

「カーブに入る以前からカーブまで伸びている」バイク乗りの身のこなしには、路面状況や他の乗り物との位置関係などによって何通りもの選択肢がある。カーブの手前でイメージするライン(コース)、身体と車体を倒し込み実際に取ったライン、さらに取り得たかもしれない他のラインのすべてが、そのコーナリングの経験なのだ。

私は、このような身の構造の体系的理解は、彼が活躍した1980年代以降現在にいたるまで、必ずしも幅広い層に理解されなかったのではないかと考えている。