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「身体」と「機械」に境界はあるのだろうか? ひとつの思索と答え

東大教授にお題エッセイを頼んでみた
「無茶ぶり」エッセイ、今回のテーマは「身体性」。私たちがこういう話を考えるとき、その「身(み)」はどこまで含むのでしょうか。爪や髪の毛は、持っているモノは、運転している自動車は、その車体が疾駆する道路は──?
AIに思索をつなげてこの「お題」に応じた佐倉統先生に続き、水越伸先生は自らの身体性を披露する秘蔵写真まで公開しつつ、ダイナミックに考察を展開します。

人生の中心にスキーがあった

小学校の終わりから高校に入るくらいまで、私は今よりはるかに人生を真剣に生きていて、その中心にはスキーがあった。

プロスキーヤーになってゲレンデの近くに住み、山や畑の仕事をしながら、詩や本を書いて暮らす! そんなことを夢みていたのだった。

私がスキーに燃えていたのは1970年代後半、バブル経済で大学生がみんなスキーに行くようになるよりしばらく前のことだ。W杯アルペンスキーに、ELANという、それまで聞いたこともなかったユーゴスラビア製のスキー板をはいた、インゲマール・ステンマルクという寡黙なスウェーデンの青年が彗星の如く現れ、その巧みな内足の使い方に世界が驚いていた頃だった。

インゲマール・ステンマルクインゲマール・ステンマルク Photo by Getty Images

あれから40年以上が経ち、スキーの道具や滑り方、社会的なイメージは大きく変わった。ただ、スキーヤーが斜面を滑走するときの意識はそれほど変わってはいない。少しそれを言葉で描き出してみよう。

メディアとしてのスキー

スキー板や留め金、ブーツ、ストックなどの道具をそろえ、ウェア、ヘルメット、ゴーグルなどとともに身体に装着してゲレンデに立つ。ちょっと、強化スーツを装着したような気分になる。

ブーツは硬くてあまり自由が利かない。滑走するとき雪面の凹凸に耐え、正確に操作ができるよう足首まわりを固定しているためだ。

ブーツはスキー板と留め金(ビンディング)で接続されている。うまい人は雪質や斜面の凹凸を、まるで足の裏のようにスキー板の裏側で感じることができる。その時スキー板は、脚の拡張装置、メディアになっている。

リフトを降りて斜面を見下ろし、どこをどのように滑るかを少し考えてから滑り出す。

スピードに乗り、1回、2回と左右へゆっくりターンする。私は上体をなるべく斜面の真下方向へ向けたままに保ち、両手の小指を意識しながらストックを握り、遠心力に外側スキーの内側エッジで耐え、下半身のねじれ具合、スキー板のしなり具合、エッジを雪に食い込ませる度合い、ゲレンデの起伏とそれに呼応して上下する足首と膝の曲がり具合、加速しながら次のターンの先を見つめる視線、そうしたいくつもの要素を複合的にチェックし、操作していく。

そしてなるべく大きくて、同じ半径の円弧を一定の速度で描くように意識しながら、滑り降りていく。

水越伸1978年7月(夏)の立山でのスキー合宿で撮影された筆者

スキーヤーはおおむね、こういう滑りのイメージを実現することに没入している。