いま理系の大学で増えている「ブラック研究室」という大問題

文系の人間が知らない「闇」
中屋敷 均 プロフィール

この「ブラック研究室」化は、一見アクティビティーの高い「優秀な」教員のラボで、むしろ起こりやすいのが特徴である。

教員には、「教育」の名の下に、ある意味、学生を「支配」する権限が与えられている。それを本当に学生のために使えば、教育なのであろうが、自分のために使うようになれば、「ブラック研究室」である。

ただ、口で言うのは簡単だが、現実にはその二つの要素が個々の事項によって微妙なグラデーションで絡み合っており、線引きはかなり難しい。教育と研究、利他と利己のはざまで、悩み、揺れ動いているのが現実の大学教員である。その背中を少し押せば、転がり落ちることは容易に起こってしまう

「デ・リクルート」問題

これがさらに発展してくると、研究室に入ってくる学生を、教員が選り好みするようなことが起こってくる。

現実の学生は個性も様々で、大学に入ってくる目的も違っている。研究に情熱を持ってくれる学生が研究室に来てくれれば、教員は皆ハッピーだが、中にはたとえ愛すべきキャラクターであっても「できませんでした!」と言ってくる学生もいる。もちろん百戦錬磨のさぼり学生も、学年に必ず数人はいる。

こういった〝手のかかる〟学生は、研究という面からみれば、実際扱いが大変である。えてして、データを出してくるのが遅い上に、その質も低いので、結局、信頼できる学生や自分でやり直さないと公表できるものにならないのが常である。時間だけとられて「何も成果が出ない」ということは、私もこれまでに多く経験している。

学生は「教育」を受けるために、研究室で研究に従事しているはずなのに、教員は「被教育者」ではなく、「戦力」が欲しいのだ。特に短兵急に「成果」が求められれば、そうなっていく。

「研究に興味のない学生は、うちの研究室には来ないで欲しい」

「厳しさに耐えられない学生は来てもらわなくて結構」

そういった有形無形の圧力を、教員が学生に伝えるようなことが起きてくる。リクルート、いやむしろデ・リクルートとでも呼ぶべき所業である。

 

また、研究室に分属後も、研究内容に対する学生の興味の問題ではなく、「厳しさに耐えられない」「教員とうまくやっていけない」といったことで、学生がドロップアウトする例も少なくない。そういった学生を受け入れる〝駆け込み寺〟のようなラボも、現実には出てきている。うまく言えないが、いろんな学生がいるように、教員にもいろんな教員がいて、大学は成り立っている。皆が目を吊り上げて「成果」を目指すようになれば、居場所をなくす学生が現実には出てくるだろう。

教育機関としての大学

こういった趨勢が、教育機関としての大学にとって望ましいことかどうかは、論を俟たないであろう。正確に言えば、こういった問題の多くが、成果主義の導入以前から、大学には潜在的に存在していたようには思う。しかし、拙著『科学と非科学――その正体を探る』(講談社現代新書)でも触れたように、昨今、こういった問題がより深刻化していることは間違いのないことである。

〝お金を取ってくる〟ことが至上の価値のような成果主義が横行し、大学の教員が皆、その方向を向くようになれば、もともと微妙なバランスの上になりたっていた研究機関としてのわが国の大学の仕組みは、根本から崩壊することになりかねない。

大学は研究機関であると同時に教育機関であり、教員への厳しい成果主義の適用は、学生へのプレッシャーにすぐに転嫁される。しかし、本来学生にはそんなプレッシャーを背負う責任はないのだ。なんと危うい構図であろうか。

具体的な方策を提言させてもらえるなら、少なくとも実験系の学部では、学生の実験に必要な実習経費を実態に合わせて増額することである。バラマキ的に教員研究費を増やすというのではなく、指導している学生の数に応じて、卒業論文や修士論文の研究に使う経費をある程度、リーゾナブルな金額で配分することは、教育機関として実際に必要なことである。

先端の研究をするには、とても足りない額ではあろうが、そのことで「悪くとも研究を続けられる」という心の余裕が、教員に与えられる。その余裕が、教育には本当に必要なのだ。

エール

今でも、時々、M君のことを懐かしく思い出す。僕は彼を、そして彼が起こした「事件」を一生忘れることはないだろう。あの時、虚をつかれた僕は、唖然としたまま、実際は何も言えなかった。

自分はどうするべきだったのか? 「彼の未来のために、きちんと叱ってやるべきだった」――そんな反省もある。しかし、彼の不器用な愚直さを、僕はどこかで認めてあげたいと思っているのだと思う。そのままで良いとは言えないが、何か違う形で、大切にしろ、とどこかでエールを送りたい。大学という場所は、成果を求めるだけでなく、そんな所であって良いような気がするのだ。

それができなくなったら、大学は死んだも同然だ。

■「科学的な正しさ」を疑い、「科学の存在意義」を問う■
何が「真実」で「異端」なのか――。講談社科学出版賞を受賞した分子生物学者が現代社会の「薄闇」に光をあてる。低線量被曝や残留農薬について、なぜ専門家は「大体、安全」としか言えないのか? インフルエンザのリスクに私たちはどこまで備えるべきなのか? いま日本の科学研究の現場では、いったい何が起きているのか? 私たちが生きる意味をも捉えなおした、極上のサイエンスエッセイ!

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