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大学入試の指導者が感じる「小論文攻略法」への懸念

「書く力」は本当に養われるのか

大学受験、入社試験、公務員試験など、さまざまな試験において、小論文試験が課されている。どんな試験にも対策が必要だ。そして当然のことながら、試験対策には、多くの分野においてプロバイダー(対策本などの著者、指導者)が存在する。

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その対策の内容としては、伝統的なもの、革新的なものなど、様々なものが流通している。しかし、筆者が「これは真似をすべきではない」と考えているノウハウがある。とくに、高偏差値大学の入学試験や公務員試験など、レベルの高い試験においては「ダメ」な評価を食らう可能性があるのではないか、と筆者は思っている。

 

「型にはめるだけ」でいいのか

大学入試や入社試験において、「小論文」という試験カテゴリーが一般化したのは、1980年代以降である。だいたい、いまの50代までの人ならば、なんらかの形で「小論文」を書かされたり、小論文試験を受けさせられたりしたことがあるはずだ。

小論文というカテゴリーが一般化するよりもずっと昔にも、作文という教育や試験のカテゴリーは存在した。たとえば、大正時代に教育運動として開始された「生活綴方(つづりかた)」や、戦後復興期の「作文」教育である。これらは、自分や家族、思い出の出来事など、身近なことへの主観的な印象や感想を書かせるものだった。

一方、80年代以降の「小論文」の試験においては、テーマは多角化し、時事など社会問題を書かせるものが多くなった。また、志望する進路に関する計画や見込みといった、個人的な内容を書かせるエッセイ(小論文)の試験においても、感想や感慨の表現よりも、記述の客観性や論理性が重視されるようになってきた。

とは言っても、1990年代初頭までは、小論文の試験は、英語や数学といった伝統的な試験科目とは異なり、これといった決定的な試験対策やノウハウが存在しなかった。

もとより、小論文という独立した科目・学科は存在しておらず、卒業論文しか書いたことがない国語科の教師や社会科の教師が、手探りで指導を施しているのが一般的であった。

ところが、上述のような小論文という試験カテゴリーが一般化し、全国の入学試験で広まると、国語科や社会科の教師とは別の、専門の「小論文指導者」が必要とされるようになり、小論文対策本の出版数も増えてくるようになる。

そして、その中から、のちに多くの受験生に使われるようになる「〇〇式」と言われるメソッドが出てきた。

「小論文や作文には、“型”が大切だ」

このように教わった学生や若いビジネスマンは多いと思う。「〇〇式」などと名付けられた、90年代から広まったメソッドの中心的なテーゼは、「型にはめよ」というものだ。

多くの受験生は、「何を書くか」ということに大いに悩んでいた。しかし、「何を書くか」をとりあえず脇に置き、「どのように書くか」を単純に習得させるノウハウは、瞬く間に受験生の間に浸透した。

単一の「型」に当てはめて書くように指南する「〇〇式」などと称されるノウハウ本は、短期間で悩める受験生のニーズを満たすことで、「受験のバイブル」となった。そして、ノウハウ本の著者たちは小論文の神様などともてはやされるようになった。

しかし、これら多くの若者・受験生・大学生・社会人に影響を与えてきたノウハウには、大きな「落とし穴」がある。その落とし穴に気付き、それらの単純なノウハウの危険性を指摘する教師たちも、少なからず現れた。

大きな落とし穴があるにもかかわらず、これまで多くの人に受け入れられてきた理由を、私は以下のように考えている。

まず、試験を課す側である大学教員にとっては、このような高校から大学へ向かう中間的なレベル、つまり、高大接続レベルにあるノウハウに言及することは、研究や業績にまったく無関係なものであり、真剣に検証したり対応したりする対象ではなかった。

また、対策を行なう側の特殊な状況にも理由が存在した。ノウハウ伝達者の多くは、「予備校」に所属している。予備校は、年度ごとに学生が入れ替わる。多くの人にとって予備校とは、一年や二年で忘れ去られる「仮の所属先」にすぎない。

予備校が、一時的なコミュニティにすぎず、忘れるべき場所であることによって、そのノウハウは、学術的で科学的な、建設的批判に晒されずに済んでいたというわけだ。

これらの理由が幸いし(あるいは不幸にも?)、全国化してしまったのだ。