科学時代の今、なぜ「神とは何か」という「問い」を立てるべきなのか

現代の「常識」への挑戦
稲垣 良典 プロフィール

自己発見への知的な旅

いま「古代・中世の知恵の探求を学ぶことで人間として善く生きる道の発見が可能になる」と述べたが、そのことについて簡単に述べてこの「まえがき」の結びにしよう。

「自己」を知る、すなわち「自己」という精神的存在を知的に理解するために第一に必要なのは、自己を「どこに」見出すかである。

それは目に見える物体のように「ここ・あそこ」に在るのではなく、「時」のうちに在るものとしてまず見出される。時のうちに在るということは自己という存在には始まりがあって、終わりに向かって進んでいることを意味する。

古今、東西を問わず、昔から自己を振り返ることを学んだ者が第一に問うのは「私はどこから来て、どこへ行くのか」であるのがその証しである。

このように見てくると、「神とは何か」と題するこの書物の内容は、一言でまとめれば、自己発見への知的な旅ということになろう。

つまり人間とは「旅する者」であり、われわれが「人生」と呼んでいるのは「揺り籠」から「墓場」まで移動する単なる「過程」ではなく、はっきりと目的地を目指して歩む「旅路」だということである。

 

じつは「知恵の探求」ということも、人間が「旅する者=人間」でなければ意味がないのであり、それというのも「知恵」は人生という旅路の目的地に関わるからである。

「人間、この旅する者」という自己認識がどうして人間として善く生きる道の発見に繋がるのかと尋ねられるならば、人生を真実に旅路として受け取り、旅路として歩む者は、この旅がいつか必ず死をもって終わる事実を挫折感や絶望をもって受け止めるのではなくて、むしろ目指していた目標・終着点——それがじつは「神とは何か」と問うていたものである——への到達であるという「希望」をもって待ち望むことができるからだ、と答えよう。

これに対してなぜどのような根拠で諦めや絶望ではなく希望について語りうるのかと厳しく問われるならば、この書物で私が自らの知恵の探求について述べたこと、とりわけ自己認識と「存在」理解に関する私の見解のほかに私の答えはない。

いずれにしても私が語りうる希望は明証的な結論、堅く握りしめた確信のようなものではなく、私自身のささやかな知恵の探求のなかで私のうちに生まれ、育まれた習慣のようなものとしか言いようのないものだからである。

『神とは何か——哲学としてのキリスト教』(講談社現代新書)より抜粋