科学時代の今、なぜ「神とは何か」という「問い」を立てるべきなのか

現代の「常識」への挑戦
稲垣 良典 プロフィール

「知恵の探求(フィロソフィア)」の復権を目指して

じつを言うと「私は信じることに場所を得させるために知ることをやめなければならなかった」というカントの「理性批判」によって閉ざされたまま現在にまで到っている、形而上学的な「神」探求への道を拓くことが、この書物で私が目指している目標なのである。

13世紀の神学者トマス・アクィナスの研究から出発した、いわばスコラ哲学を抱え込んだ哲学研究者が、近代哲学を代表するデカルト、ヒューム、カントの仕事を「挫折」といった否定的な言葉で簡単に切り捨てるのは不遜ではないか、と専門研究者に叱られるのは覚悟している。

 

私があえてそうしたのは、12世紀ルネサンスのある学識ある人物の言葉を借りると「巨人の肩に乗った侏儒(こびと)」としてである。

実際に古代・中世の古典を研究した先輩たちから「人生の大事に関して古人が開拓してくれた知的遺産に比べると、近代哲学の偉大な人物たちの発言がどこか矮小に響く」という感想を聞いたことがある。

例えばわが国ではカントと言えば人間の真の道徳性、自律としての自由、人格の尊厳を明確・体系的に説いて倫理学の頂点を極めた哲学者であるという評価が定着している。

しかし幸福や徳などに関するカントの議論を古代・中世の古典的な教説に比べると、倫理学の根本問題である人間の究極目的や、人間が真の究極目的への到達に向かって歩むべき道としての徳などの重要な問題をさしおいて、もっぱら「最小限の道徳」について緻密な分析を重ねたに過ぎないという印象を受ける。

カントにとって人間の道徳的完全性とは義務を義務として完璧に、すなわちあらゆる困難に打ち克って遂行することであり、それが徳にほかならない。

そして人間は、徳という卓越性には名誉や富など、人々が幸福と呼ぶものが伴うように望むことが許されるが、これらのものは偶然に左右されるものであって、限りある地上の生では正義の要求を満たすような仕方で配分されることは期待できない。

そこでカントはこのような窮状の是正のために「実践理性の要請」として霊魂の不死性を導入する。

私は昔、旧制高校の哲学概論でこのカント説を聞いたかどうか覚えていないが、もし聞いていたら納得したと思う。

しかし、よくよく熟考すると、偶然に左右されるような「幸福」(それはむしろ「幸運」「僥倖」と呼ぶべきであろう)のために霊魂の不死がなくてはならぬ、という説が道理に適うものであろうか、むしろそうした偶然に左右されるものは、たとえ多くの人が欲するものであっても人間の真の幸福とは言えないのではないか。

そしてアリストテレス、アウグスティヌス、アクィナスは揃ってそのように主張したのであった。

「哲学としてのキリスト教」の探求

言うまでもなく、私は近代思想が数々の独創的で知的刺激に富む哲学者たちによって形成されたことを否定するつもりはない。

ただ近代哲学や科学が古代・中世の「知恵の探求」を無用にしてしまったのではなく、そこにはわれわれが今こそ学ぶべき、そして学ぶことで人間として善く生きる道の発見が可能となるような知的遺産が含まれているのではないか、と示唆したいのである。

この書物の副題を「哲学としてのキリスト教」としたのはそのような気持ちからであった。

中世哲学は「キリスト教的哲学」と呼ばれ、そして中世哲学を代表する「スコラ学」はキリスト教の教義・教説をプラトンやアリストテレスの哲学の学説や概念の助けをかりて明確・説得的に解説したものだ、という説明がかなり一般化しているようである。

だが、これは事柄の本質を捉え損なった皮相的な説明にすぎない。そうではなく、卓越したスコラ学者たちはギリシア哲学における知恵の探求を、自分たちの信仰を知的に理解することで得た知恵の光の下で大いに進展させたのであった。

それは取りも直さずキリスト教を知恵の探求という面で捉えることであり、私がここで「哲学としてのキリスト教」という表現を用いることを正当化するものではないだろうか。