科学時代の今、なぜ「神とは何か」という「問い」を立てるべきなのか

現代の「常識」への挑戦
稲垣 良典 プロフィール

「自己」を問うことは「神」を問うこと

なぜかと言えば、「神とは何か」という問いときわめて類似した「自己とは何か」という重大な問いも、近代哲学においては明確な答えが見出されないまま、あたかも解決済みであるかのように放置されているからである。

つまり自己とは、われわれが「自己とは何か」と問う時に、問うているわれわれ自身なのだから、これ以上に身近で、私自身に親しく現存するものはありえない。

しかしあらためて自己とは何かと問うと、自己は私が見て、触れる存在のように感覚で直接に捉えることのできないものであるから、それを明確に知的に認識するためには精密かつ熱心な探求と洞察が必要とされる。

 

そのことを理解しないで自己認識を試みたヒューム(David Hume, 1711-1776)は「自己は知覚の束にすぎない」と結論したのであった。

また、デカルトが試みた自己認識は単なる自己意識にすぎないことを見てとって、自ら自己認識の難題と取り組んだカントは、結局のところ理性の正当な(認識)要求と不当要求を判定する法廷の設定に過ぎない「純粋理性批判」を遂行するにとどまったのである。

Immanuel Kant(1724-1804)

ここでは「神とは何か」という問いと「自己とは何か」という問いは極度に類似していると述べるにとどまったが、この後できる限り明らかにしようと試みるつもりの「神とは何か」という問いは、「自己とは何か」という問いの探求の深まりが必然的に呼び起こし、考察せざるをえなくなる問いであると同時に、「自己とは何か」という「人間精神の自己への立ち帰り」である問いを真剣に問うことによってのみ生まれてくる問いである。

ということは、自己認識の挫折が「神とは何か」という問いの忘却を引き起こしたということなのであろうか。

近代哲学の欠陥

そして私がこの書物で指摘して、今後の討論を期待したかったのは、デカルト、ヒューム、カントという、近代哲学を建設し、方向づけた哲学者たちは人間的認識、つまり人間の「知る」という働きをもっぱら確実で検証可能な科学的知識という側面に限定し、その帰結として「神とは何か」「自己とは何か」という問いが(科学的)知識の領域ではなく、知恵の領域に属する問いであることを見誤ったのではないか、ということである。

言いかえると、これら近代哲学を代表する思想家たちは人間の「知」を確実な答えが原則的に発見できる「問題」に関わる「知識」のみに限定し、一見わかりきった平凡なことのようで、あらためて正面から立ち向かうとその不思議さでわれわれを驚嘆させ、限りない探求へと誘う「神秘」に関わる「知恵」を区別しなかったのではないか。

(科学的)知識が関わる「問題」と、知恵そして真正な知恵の探求(哲学)としての形而上学が関わる「神秘」との明確な区別は、20世紀前半にガブリエル・マルセル(Gabriel Marcel, 1889-1973)を始めとする一連の形而上学の復権を主張する哲学者によってあらためて指摘された。

とはいえ、この重大な区別を前述の偉大な哲学者たちが見落としたと言うのは幼稚な暴言だと、これらの哲学者の研究者たちから非難されるかもしれない。

しかし後で触れるように、知識と知恵の区別、そして人間的認識の本質を考察する精神の形而上学ないし形而上学的霊魂論は、すでに中世末期にウイリアム・オッカム(William of Ockham, 1280?-1349?)において崩壊していたのであり、デカルトが学んだ「スコラ哲学」は、このような精神の形而上学の根本問題に対処できなくなっていた。

したがって古代・中世思想に比べてはるかに広大な宇宙論的展望と、信仰への依存を脱却した「経験と理性に従う者」(オッカム)の誇りをもって出発した近代思想は、形而上学的探求を適切、有効に進めるための途をはなから閉ざされていたのであった。

このことを考慮に入れるとき、前述の私の批判的発言への反撥はかなり和らげられるのではないだろうか。