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科学時代の今、なぜ「神とは何か」という「問い」を立てるべきなのか

現代の「常識」への挑戦
「神とは何か」——科学万能の現代に、なぜこのような「時代遅れ」の問いが発せられなければならないのか? だがしかし、本当に、「神」の問題は哲学的にはすでに解決済みなのか? 

中世スコラ哲学の第一人者・稲垣良典氏の『神とは何か——哲学としてのキリスト教』(2月13日発売/講談社現代新書)より、「まえがき」を公開。

「神とは何か」に「答え」はあるか

「神とは何か」というこの書物の表題が目に留まり、今の時代に風変わりな人間がいるものだ、いったいこんな問いかけに興味を示す者がどこにいるのか、この問いに答えがあるというのか、いやその前にこの書物の著者は答えを知っているのか、と疑問を抱く人がいたならば——たぶん、その数は少なくないと思うが——私はここでただちにその疑問はそっくりそのまま私自身感じたものだと答えたい。

「神とは何か」という問いの特異性というか不思議さについては、この後「序論」で集中的に取り上げて考察するほか、繰り返しさまざまの角度から考えてゆく。

それはわれわれの日常生活のなかで好奇心から生まれる問い、あるいは科学者が自らの特定の研究領域のなかでそれぞれ固有の方法を駆使して対象からいわば力ずくで答えを掴み取ろうと試みる問いとはまったく違う。

それは「何か」と問うことが無意味に感じられるほどわれわれ自身に身近で、自分自身の奥深く現存するかと思えば、われわれの想像力はおろか認識・思考能力のすべてを無限に超えるとしか言いようのない何物かに向けられた問いである。

ということは「神とは何か」という問いはわかりきったことに向けられた空虚な問いであるか、「知りえない・語りえない」と自ら認めつつあえて知りたいと熱望する自己矛盾的な問いである、ということになろう。

いずれにしてもこの問いは普通の意味での答えがない、その意味で特異で不思議な問いであることは間違いない。

 

科学時代の常識を破る問い

いまこの問いは科学者が科学者として取り組む問いとはまったく違うことに触れたが、われわれにとってきわめて身近で、平凡と言えるほどわかりきったことでありながら、いざそれは何かと問い始めるとまったく不可解で測りがたいようなことは科学的探求の領域からは原則的に排除される。

そして科学的探求の領域から排除された事柄についてはもはや厳密な意味で知ることは不可能だ、というのが科学の時代である近・現代の常識であるから、「神とは何か」という問いは知的探求の領域から原則的に排除されることになる。

ここからして、人間の「知る」という働きは正確に言えば科学的に知るということだ、少なくともそのことを目指すべきだ、という立場をとる人々——恐らく「知識人」とか「科学的な考え方をする人」の大半がそうだと思われるが——にとっては「神とは何か」という問いは知識の領域に属するものとは見做されない。

ところで(科学的)知識の領域に含まれないということは、科学的に説明される現実の世界には存在しないということであり、科学的に説明される世界のみが現実の世界だと信じる者にとっては、そのような(科学的知識の領域に含まれない)ものは実在しないに等しいことになる。

実際に、科学的知識の対象になりえないような神の実在は認められないという理由で無神論を支持する者は多いのであり、冒頭で触れた「いまの時代に風変わりな……」という表現はそうした科学時代の「常識」を言い表すものであった。

つまり「神とは何か」という問いは、科学時代の常識を前にして知的な問いとしての意味を喪失したというわけである。

確かに「神とは何か」という問いが置かれている状況は、右に述べたような科学的知識の領域、したがってまた知的関心の領域からの追放というものであり、この問いにはすでに結着がついているとの印象を受ける。

しかし、本当にそうであろうか。

デカルトにおいて始まった絶対に不可謬で不可疑の基礎原理の上に築かれた新しい哲学、そして、ガリレオ、ニュートン、ラプラスなどによって開かれた道を急速に突き進むことによって築かれた近代科学は、「神」という前提を必要としない人間的知の体系を創り上げたのであろうか。

ここでのわれわれの関心事である「神とは何か」という問いに限って言えば、「この問いは無意味であることが科学的に明らかにされた。論証完了!」ということなのであろうか。私にはそうだとは思われない。