経営危機に陥っていた講談社を救った「徹底した雑誌中心主義者」

大衆は神である(37)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

大正の初め、出版業界では、二つの革命的な流通制度が整備されつつあった。「定価販売制」と「返品自由制」──これが日本に「雑誌の時代」をもたらすことになった。この絶好のタイミングで、借金まみれで経営危機に陥っていた講談社に救世主が現れる。

第四章 団子坂の奇跡──東京堂・講談社枢軸の形成⑶

交換条件は……

清治の社ではこのころ雑誌以外に『プリュターク英雄伝』や『青年雄弁集』など各種の単行本を出していた。清治にしてみれば、社の内情は苦しくて、卸値の値引き要求に応じられる状態にはない。ふだんならただちに突っぱねるところだが、このとき彼はそうしなかった。

「よろしゅうございます。私には、あなたのご要求のごもっともであることが、よく了解できましたから、喜んでご希望に応じましょう。が、私のほうのお願いも聴いてください。いかがでしょう、特別のお計らいで、少し御融通願えないでしょうか」

 

卸値の引き下げに応じるから、金を貸せという交換条件の提示である。このあたりの呼吸は鮮やかというしかない。山添はべつに困ったような表情を見せず、

「そうですね。私としては即答はいたしかねますが、帰って大野と相談してみましょう。そうたいしてむずかしいご相談とも思えませんが……」

と、いたって気軽な口調で応じた。

数日後、山添から「大野がお目にかかりたいと申しております」と電話があった。清治は東京堂に飛んでいった。

次は、秘蔵資料に残された大野の証言である。

〈野間さんが私どものところにお見えになって、『講談倶楽部』や『雄弁』の計算書をお持ちになって、スッカリ見せてくださったんです。それがなんと、その時分の高利ですね、日歩二十五銭ですから……。あのときは日歩といやァ三銭か二銭いくらかじゃなかったかと思うんです。それが二十五銭だというのですからね。せっかく数字の上で儲けは出てくるけれども、利息をそういうふうに持ってゆかれるから、儲けはなくなって数字がどうしても合わないんですね。赤字にならない程度でトントンくらいでしたろう。

これじゃどうにも仕様がないということから私にいろいろお話があったものですから、私も計算書を見せられれば、利益もあるし、今後やりようでは見通しがつくということもわかったし……野間さんにお会いしてみればいかにも熱烈な方で、人格の立派な方だし、それに事業について確信をもっておいでですから、なんとかやってゆけるという見通しもつきましたし、せっかく営業としてやってゆけるものを利息にとられて、そのほうにもってゆかれるので、これじゃいつまでも同じことをくりかえすことになるので、野間さんの人格と経営を認める一方、高利貸しの悪辣なことに義憤を感じて、それじゃ何とかいたしましょうということで、それで五千円、――野間さんの要求は、そんな半端じゃなかったんですが、「五千円くらいならよろしい」ということでお話しして、五千円を融通申し上げることになったんです。

私の会社は、明治四十四年に合資になって、それから焼け、ようやく建物を建てたんですから金なんか何もない。金というものは建物になっているし、商品になっているのですから……。ただ借金をしない原則にしてるんですから、――しかも、手形一枚書かないのです。したがって現金としてはそうあるわけじゃない。そのなかから五千円出したということは、会社としてまかりまちがえば、それこそあるいは野間さんと運命を共にしようという決意を持ったほどであったんです〉

大野はその場で付け加えた。

「私どもは、どの出版社に対してもこんなことはできぬ定めであり、これは私どもが、あなたのご手腕やご人格に信頼を置いて、今回初めてすることです。そんな次第で、個人のものとちがって会社の帳簿に記入されるものですから、借用証等は是非確実な方法でお願いしたい」