昭和15(1940)年1月、休暇で菅平スキー場に遊びに来た、パイロットの卵の海軍士官たち

日米開戦前年にスキー!? 海軍搭乗員たちの意外な青春

「非行将校」がのちに名指揮官に

日中戦争が泥沼化し、アメリカとの関係がどんどん険悪になっていった頃。当時の世相は暗雲に覆い尽くされ、自由にものが言えず、人々が息が詰めて暮らしていた時代だと想像する人が多いだろう。

だが、日米開戦以降、最前線で米軍機と死闘を繰り広げることになる日本海軍の搭乗員たちは、意外に自由な青春を謳歌していた。

庶民には高嶺の花だったスキーを楽しみ、ハリウッド映画に夢中になってタップダンスの練習に興じる――決してクソ真面目ではなく、どちらかといえば不良といってもいい若者たちだったのだ。

 

カメラを胸に菅平でスキーを楽しむ

まずは写真1~3を見てほしい。

写真1 (撮影:山下丈二)
写真2 (撮影・下田一郎)
写真3

スキー場でそれぞれカメラを首からさげ、屈託のない笑顔を見せる青年たち。これらの写真が、いつ、誰を撮ったものか、おわかりになるだろうか。

もちろん、昨今のスキーウェアではなく、セーターやジャンパーにネクタイという、ウィンザー公(1894-1972。「王冠を捨てた恋」で有名なイギリス国王エドワード8世。退位後、ウィンザー公爵となり、ファッションリーダーとしても著名だった)ばりのスポーツファッションからもわかるように、最近の写真ではない。

……もったいぶっていると話が前に進まないので種を明かすと、これらは、いまから79年前の昭和15(1940)年1月、長野県の菅平スキー場で撮られたもの。写っているのは全員、正月休暇で遊びに来た、パイロットの卵の海軍少尉(海軍兵学校66期、第33期飛行学生)である。彼らはみな、茨城県の筑波海軍航空隊で訓練中の身だった。年齢は、全員が22~23歳だから、現在の大学4年生ぐらいか。

えっ? この人たち、軍人なの? そんなふうには見えないなあ……などと思ってしまうのは、戦後、さまざまな機会を通じて偏った軍人像を刷り込まれているからで、彼らも普通の20歳代の若者である。

一般の人とちがうのは、当時、庶民にはとても手が届かない代物であったドイツ製カメラを、みんなが持っていること。あと、リフトもない時代、人影もまばらなスキー場でスキーを楽しむというのも、当時の感覚からすると、ずいぶんハイソな人たち、ということになるのかもしれない。

写真に戻って、まず写真1。左から、下田一郎少尉。首から下げた距離計連動機・コンタックスⅡ型がチラッと写っている。次に日高盛康少尉。これはライカ。スローシャッターダイヤルのないⅡ型である。今回の菅平の写真は、いずれも日高さん(2010年歿)提供によるものだ。3人め、植山利正少尉。これもチラリとしか見えないが、一眼レフのキネエキザクタ。右端は須藤朔少尉。こちらは機種不明。

写真2は、左から、蛇腹式スプリングカメラ・スーパーセミイコンタを下げた山下丈二少尉、須藤少尉、キネエキザクタのファインダーをのぞく植山少尉、右手前が日高少尉。

写真3は、ライカとコンタックスのそろい踏みで、左から日高少尉、下田少尉。

日本のカメラ産業が世界レベルに達したのは戦後のことで、昭和10年代だと、高級精密カメラといえばドイツ製という時代である。言わずもがなのことだが、いまでこそクラシックカメラとよばれるこれらのカメラ、この当時はけっしてクラシックではなく、時代の先端をいくものだった。

これら舶来高級カメラは、当時の一般的な価値基準からかけ離れて高価なものだったが、彼らの多くは、海軍兵学校を卒業、少尉候補生となって遠洋航海のさいに、海外で免税でカメラを買っていたという。

日高さんによると、当時、日本の租借地だった大連(現・中国遼寧省)に入港したときにみんなでカメラを買ったが、新品のズマール50ミリF2レンズ付きライカⅢaが約700円、ゾナー50ミリF2付きコンタックスⅡが約1000円だった。

日高さん自身は、600円の二眼レフ・ローライフレックスが欲しかったのだが、そのときは予算が合わず、270円で買えた普及版のローライコードUで我慢した。が、結局そのカメラはあまり気に入らず、大のカメラ好きであった兄のライカを借り出して使うようになる。

ここに写っている5人の少尉が遠洋航海に出たのが昭和13(1938)年。同年の「アサヒカメラ」(朝日新聞社)誌6月号に掲載されている広告を見ると、日本国内での価格はゾナーF2付きコンタックスⅡが1345円、ローライフレックスオートマット790円、ローライコードUが400円。ライカについては新品正価が見当たらないが、中古品でもズマールF2付きライカⅢaの相場は750円ほどするから、大連での新品価格は、免税品だけに割安感がある。

ただ、日高さんの記憶によると、当時、同じドイツ製カメラでも中国市場向きに出荷されたものには「徳國(中国語でドイツのこと)製」の刻印が入っていて、少し質が劣ると言われていたという。

とはいえ、当時で数百円から1000円にもなる買い物はやはり大きい。物価の上昇幅はものによって異なるので一概には言えないが、当時の大卒初任給が70円ほどであったことから比べると、現在は当時の約3000倍にはなるだろうか。いまの感覚でいえば、ライカが210万円、コンタックスが300万円といったところ。

だが、2000円もあれば東京都内で家が建つと言われていたことを思えば、実感としての価値はもっと高かったことだろう。ちなみに、海軍少尉の俸給が、大卒と同じく月額70円。同じ海軍でも、下士官の二等兵曹は22円、二等水兵はわずか6円50銭(ただし、昭和18年、増俸後のデータ)である。

参考までに当時の物価の例を挙げてみると、コーヒー1杯15銭、銭湯6銭、床屋が45銭、高額品では、三越百貨店で革ジャンパーが70~80円、誂えの背広が120~130円。料亭で芸者を揚げて、ひと晩泊まって30~50円ほどだった。

海軍兵学校出身の海軍士官が飛行機の搭乗員になるまでには、ひととおりの艦船勤務を経験してから、適性のあるものが飛行学生に選抜される。日高さんたちが、筑波海軍航空隊で飛行学生として練習機の操縦訓練を受けたのは、昭和14(1939)年11月から15年6月、専攻機種ごとの訓練部隊に配属されるまでの約半年だった。

「毎日、空を飛べるのが楽しくて仕方がありませんでした」

と、日高さんは目を細める。

ライカを首から下げた日高少尉。軍帽の針金を抜いてわざと形を崩しているが、これも当時の若い士官の流行だった

支那事変(日中戦争)は3年めを迎え、泥沼化していたが、戦時下とはいえ、街はまだ平和で、遊びたい盛りの青年士官が不自由することはなかった。肩書きは「飛行学生」だが、待遇は一人前の士官だから、通常の少尉の俸給月額70円に加えて、60円の航空加俸がつく。

平日は飛行訓練に精を出し、土曜日午前の課業が終われば、翌週月曜日朝の課業開始までは自由時間。日高さんはクラスメートと一緒に、週末ごとに東京に遊びに出かけたと言う。海軍びいきの店主が寿司を握る新橋の「新富寿し」(現在も、流れをくむ同名の店が銀座で営業している)が、日高さんたちの溜まり場だった。年末年始の長期休暇もきちんと与えられた。連れだって菅平スキー場に行ったのはこのときのことである。

「スキー場に持って行ったライカは兄に借りたものですが。一緒に行った5人のうち、のちに艦上爆撃機の名パイロットと謳われた下田と、陸上攻撃機に進んだ植山、戦闘機に行った山下は戦死。私と、負傷して片目を失った陸攻の須藤だけが生き残りました」