「登場人物の気持ちを答えよ」という国語の授業が大間違いなワケ

様々な教え方を実践して気づいたこと
須貝 誠 プロフィール

心情曲線を使った授業

心情曲線を使った授業とは、登場人物の心情を場面の移り変わりや出来事にそって、折れ線グラフにする授業である。

「ごんぎつね」で言えば、「ごん」の心情の移り変わりを場面ごとに、一本の線にする。

たとえば、グラフの縦軸を「善悪」とする。「悪」をいちばん下、「善」をいちばん上とする。「ごん」の心情をみんなで話し合わせると、下のような折れ線グラフができあがる。

学校では、このような線のことを心情曲線と言っている(厳密には曲線ではないが、なぜか、曲線と名付けられている)。

この心情曲線の意味は、次の通りである。

① いたずらばかりしていた時だから『悪』
(兵十がとった鰻を盗んでいた)

② 良いことをしているから『善』
(「ごん」は、兵十の母が亡くなってからは、栗などを兵十の土間に投げ入れるという償いを続けたから)

③ 「ごん」は兵十に気付いてほしいとも思っているから『善と悪の間』
(本当に心の底から良いことをしていれば、兵十に気づいてもらえなくてもいい。だから、「善」にはならないだろうという考えもあるから)

④ 兵十に鉄砲で撃たれたときも償いをしていたから『善』
(あるとき、兵十は家にやって来た「ごん」に気づく。「また、盗みに来たな」と思い、鉄砲で撃ってしまったときの心情を表している)

そもそも、「気づいてもらえないとき」「撃たれたとき」の心情を「善悪」で決めること自体に無理があるとも言えるが、これが、心情曲線を使った授業のひとつである。

 

「ごん」と兵十の心情を一緒に心情曲線にすることもある。「ごん」と兵十の心が通い合っているかどうかを折れ線グラフにして考えさせると、下のような心情曲線ができあがる。

「ごん」と兵十の心の距離を「近い」「遠い」を縦軸にして考えさせた結果である。どの場面で、「ごん」と「兵十」が分かり合えたと言えるのかを見つけさせている。「ごん」と兵十の線が重なった部分が、「分かり合えた」というところというわけだ。

この心情曲線を見ると、心情を問う授業行為そのものはできているが、登場人物の心情を正確に捉えられているのかは、怪しい。

たとえば、「撃ったとき」「撃たれたとき」で分かり合えたとされている。本当だろうか?

分かり合えたという証拠を文章中から見つけることはできない。論理的に「通じ合えた」と言い切ることはできないのだ。書かれていないのだから。あくまで、読者の想像の範囲にすぎない。

私も心情曲線を使った授業をやっていた時期があるが、すっきりとはしなかった。文章中には書かれていなかったり、論理的には導き出せなかったりしても、折れ線の位置を無理やり決めてしまっていたからだ。

結局、子供の考えを何でも「いいね」としている授業と同じなのではないかと思えたのだ。