新入社員。それはサラリーマンであれば誰もが必ず通る道。文字通り右も左もわからず、名刺も満足に渡せず、無力感に打ちひしがれる日々…そんなとき、先輩の背中がとても大きく見える。
大反響の実録小説「東京マネー戦記」。20年前、大手証券会社に入社したばかりの「ぼく」がはじめて犯したミスとは?
(監修/町田哲也)
第1回:「リーマンショックの裏で、危険な綱渡りに挑んだ証券ディーラーの運命」
第2回:「優秀な女性社員の『深夜残業と離婚』は、ぼくの責任なのかもしれない」
ぼくがはじめて名刺交換をしたのは、入社して数ヵ月経ってのことだった。
相手は、ぼくの育成担当を務める橋本信男を訪ねてきた金融機関の運用担当者だった。橋本は、ぼくを同じ部署で働くメンバーの一人として紹介した。
当時のぼくは、先輩の下働きばかりで社外との接点はほとんどなかった。顧客を連れてきた自社の営業担当者に名刺を差し出してしまうわ、先方の部下のほうに先に挨拶してしまうわで、自己紹介すらままならない。
緊張して、自分が話す予定だった内容もほとんど説明できなかった。
「気にすることないよ、最初はみんなわからないんだから」
「すみません。準備はしっかりしていたのですが」
「経験しなきゃ、できるようにはならないよ」
「橋本さんもこんなにひどかったんですか?」
「似たようなもんだよ」
橋本は、ぼくより3年入社が早かった。彼の気遣いに優しさを感じる一方で、マーケットとの距離が遠ざかっていくような気がしてならなかった。マーケットは投資のプロフェッショナルの集まりであり、自分の意見を持たない者が踏み込むべき場所ではなかった。
ぼくが最初に配属されたのは、金融機関の資金運用の分析をする部署だった。日々のオーダーをとるのが営業担当者の役割だとすると、投資家の資産を分析し、診断をする役割だ。
その道数十年という投資家に助言をするとなると、要求される知識水準は高い。
投資対象のリスク・リターンという計量的なものから、当面の景気見通しというマクロ分析、顧客である金融機関の会計制度、税務面のサポートまでカバーしなければならない。幅広い領域の知識を持つ先輩たちの姿がまぶしかった。
さして年齢も違わず、同じ頃に大学へ通った先輩が投資家の質問に軽やかに対処している姿を見ていると、彼らと自分の間にあるギャップにやり切れなさを感じた。
証券会社の朝は早い。新入社員は誰より早く出社しなければならないので、5時に起きて6時には会社にいるような毎日だった。ミーティングの資料を印刷して、前日の取引をまとめ、複数の新聞をつき合わせながら読んでネタになりそうな記事をさがす。
8時からアナリストを交えた朝会がはじまるため、膨大な資料をコピーしている間が唯一、休める時間だった。コピーをとりながら立って寝ている姿は、周りから見ても異様に映ったと思う。
自分の時間ができるのは、業務終了後や週末だ。たまに早く帰れる日には、決まって寮の近くのファミレスで新聞やレポートの読み込みをしていた。
とはいっても、食事をとるとすぐに眠くなってしまう。迷惑そうな顔をした店員に何度も起こされては、くたくたになって寮に帰ったのを覚えている。とにかく毎日が眠かった。
ぼくが大学を卒業した20世紀末のマーケットでは、誰もが冷静さを失っていた。国内では北海道拓殖銀行や山一証券が破綻し、海外ではアジア危機が遠因となって、ロシアが債務不履行に陥っていた。
あらゆる市場参加者が安心を求めていた。世界中の株価が下落し、国債など高い信用力を持つ債券へと流れる資金の動きが金利を押し下げていた。
ぼくが配属された証券分析部も、例外なく奔流に巻き込まれていた。大荒れの海に放り出された投資家が求めていたのは、正確な地図と、自分たちがおかれた状況に対する客観的な診断だった。先輩たちは毎日、投資家訪問で大忙しだった。
一日に何件もの投資家と議論している彼らを見ていると、ぼくも早く一人前として認められたかった。顧客として親しい投資家を持ち、彼らに信頼されることこそが、証券会社で認められることの証しのように思えた。