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普通のサラリーマンをユダヤ人虐殺に突き進ませた「組織悪」の正体

疎外を恐れる我々に、今なお宿る病理

ワイマール共和国の建国から今年で100年。前回の記事では、先進的な民主憲法を制定し、百花繚乱のワイマール文化が興隆した共和国が、わずか14年でナチスの台頭を許す過程を素描した。今回は、ワイマール共和国のサラリーマンに着目して、現代にも通じる組織の病理を考える。

ワイマール共和国の主役:サラリーマン

ワイマール共和国では、20世紀に入ってから急増したサラリーマン層が大都会の主役を演じ、華やかな消費活動と事務労働に従事していた。その光景は、現代の日本とさして変わらないものだった。

当時のドイツのサラリーマン数は350万人(うち女性が120万人)。主な職業は商業を中心に、工場や銀行、運輸部門などで働く事務員や技術者などである。労働者総数が2倍に伸びようとする間に、サラリーマン数は実に5倍も伸びた。

リベラル派のフランクフルト新聞の記者だったジークフリート・クラカウアーは、ルポルタージュ『サラリーマン』(1930年)で、ワイマール時代のサラリーマンたちを以下のように描写した。少し長くなるが、その大要を紹介する。

クラカウアーの描いたホワイトカラー層

「頭脳労働がしたい」「綺麗な仕事がしたい」――。学校を出たての青年男女たちはアンケートにこう答えている。20世紀初頭、サラリーマンが憧れの職業となった。クラカウアーは、ちょっとした企業でも経営者は学歴を求め、資格証明書を追いかける若者たちの姿を描写する。

親も子供を少しでも社会の上層に押し上げようと、教育投資を惜しまない。経営者側は「個性に応じた仕事を与える」と、科学の装いを凝らした適性検査をあてがう。「労働には喜びがある!」と。

しかし近代的企業の合理化された社会では、もはや個性を発揮できるような仕事はほとんどなく、体制の好む画一的なサラリーマン像だけが形づくられているとクラカウアーは分析する。

直属上司の課長補佐からパワハラを受けた挙げ句、解雇された事務系サラリーマンが労働裁判所へ訴え出たが、その企業の幹部は原告も課長補佐も知らず、「なぜ、直接言ってくれなかったのか」と驚きを隠さない――。

組織のヒエラルキーのもとでは、トップと末端との意思疎通はほとんど存在しない。経営陣は静かな重役室にいて、経済合理的な決定を下す。中間管理職とて経営トップに接するのは稀で、組織はトップの意思を離れて独自の運動をすることを、クラカウアーは示している。

「家具と毛皮のコートを売り払い、生活をしのいでいる」「全ての人間に信頼が持てない。妻とは離婚。自殺の思いにも駆られる」――。中年失業者へのアンケート回答の一部だ。仕事の合理化が進めば、中高年労働力が排除される。給料は高くせねばならない反面、新しい技術についていけない。

政府は失業率を抑えようとして中高年層の解雇にブレーキをかけようとするが、再就職しようにもなかなか受けつけてくれない。単純労働者と賃金が変わらなくなっても、教養が売り物の彼らは同列に扱われることは耐えがたく、見栄を張るのに躍起となる。身だしなみも含め、文化的生活を維持するのは経済的にも大変だ。

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あるデパートでの話。女性事務員は「プリンセス」と呼ばれ、女性店員より大事にされる。そして商品発送係の女性は、倉庫と商品置き場との連絡を行っている同僚に比べて、とてつもなく立派だとうぬぼれていたという――。「サラリーマンの最下層でさえ、自分は他とは違っているかのように振る舞う」

組織の中で頭角を現わそうとするサラリーマン同士は、表面上の親密さとは別に団結しにくい。経営者側はそれを承知していて、個別に地位などのエサを与えて引き離しにかかろうとする。

数々の企業福祉制度とともに、季節ごとのパーティー、企業内スポーツクラブなど――。従業員がバラバラでは仕事も円滑に遂行されないから、疑似共同体的な連帯感を醸成しようと様々な趣向を凝らす。有名なスポーツマンを招いて、スポーツの精神がサラリーマン組織にも重要と力説する。クラカウアーは「徹底的な植民地化過程」と断じる。

経理といった普通の業務に携わる数人の中高年サラリーマンとダンスパーティーの夕べに参加したクラカウアーは、普段は謹厳で、静かで目立たない彼らが豹変して飲んでは踊りまくる狂態に驚いた――。「決断を避け、現実よりも生活を魅惑するものを好む」。

単調な労働が続けば続くほど、夜は日常からできるだけ離れようとする。大都会ベルリンはきらびやかなネオンの下に居酒屋、キャバレー、ダンスホールなどが溢れている。現実の惨めさを覆うべく、気散じとしてのイリュージョンが感覚を麻痺させる。

……以上がクラカウアー『サラリーマン』で描かれているワイマール共和国のサラリーマン像だ。現代の我々と余りにも似てはいないだろうか?