日本に「雑誌の時代」をもたらした、革命的な二つの制度の誕生

大衆は神である(36)
魚住 昭 プロフィール

取次店の幹部たちは「同業者と仲良くすると、競争しにくくなるから付き合うな」と店員を教育していた。幹部たち自身も、出版社から「集まってもらいたい」と頼まれると、「同業に心を許す場所には参加できない」と頑強に断るほど競争意識が根強かった。

大野は取次大手の東海堂、北隆館に働きかけ、組合設立の必要性を説いた。このまま乱売競争がつづけば共倒れになる。そうなる前に乱売をやめなければならない。大野の述懐。

〈(雑誌組合を)つくるまでの間の苦しみはたいへんなもので、みんながおかゆも食べられない、重湯もすすれないというところまできてしまったのです。それで二チも三チもゆかないで。それは東京堂がやってゆけないことはないと社員はいっておりますけれど、だから組合などつくって協定をしなくてもどこまでも闘ってゆくというのですけれど(略)そんな競争しておっては、それは後には独占的になるかもしれませんが、しかしまた新しく競争する人が出てくるから、同じことを繰り返すのはいけないから、みんなが成立つようにすることがいちばんいい方法じゃないかと(言ったんです)〉註①

 

大正3年3月、大野の説得が実って東京雑誌組合(日本雑誌協会の前身)が誕生した。

メンバーは、雑誌発行所と取次業者の計81社。最大の眼目は、小売店に雑誌の定価販売を守らせることである。違反した小売店は取引を停止される。

さらに翌月、大野の働きかけで取次と小売店による東京雑誌販売業組合が結成され、これで版元・取次・小売店の足並みがすべてそろった。以後、雑誌の定価販売は段階的に定着(暫定措置として一割以内の値引きを当面認めた。完全実施は大正8年から)していく。

実業之日本社が口火を切る──返品自由制

これより少し前、雑誌販売業界で、もうひとつのドラスティックな構造転換が起きた。

従来、版元は小売店からの返品を受け付けない「買い切り制」をとっていたが、それが、返品をいくらでもとる「返品自由制」に切り替わったのである。

口火を切ったのは、元読売新聞経済主任記者の増田義一(ますだ・ぎいち)が率いる実業之日本社だった。

増田が『婦人世界』の明治42年新年号から、まだどこもやっていない「返品自由」方式を採用すると発表したところ「小売店は俄然活気を呈し、危ぶんでいた取次方面の心配を蹴散らすように『婦人世界』の売れ行きはめきめきと伸び」たという(『日本出版販売史』)。

自信を得た増田は『日本少年』『少女の友』など他の全雑誌についても返品自由制の採用に踏み切った。その結果、大正3年に『婦人世界』が25万部前後、『日本少年』『少女の友』が各15〜16万部から17〜18万部に達し、博文館の全種類の雑誌を凌駕する”実業之日本社時代”が到来した。大野の証言。

〈実業之日本社のやりかたと反対に、博文館は相変らず返品を取らんという主義であったから、だんだん落ちていったんですね。われわれとしても、余ったら返すという条件の取引なら安心して積極的な部数が扱えるし、小売店もそのつもりで仕入れることができるから、実業之日本社のものはどんどん伸びていく。

いったい小売店の店頭販売というものは決して固定したものではない。その月の雑誌の出来映え、宣伝などによっても相当な伸縮がある(略)。買い切り制の場合は、人情として、先月売り余した店はどうしてもだいじをとって部数を減らして申込んでくる。われわれの方でも小売店の申込みに余る部数は発行所にも断ってしまうというわけで、だんだん消極的となり、部数も退却ですね。

ところが博文館では、そういう店頭販売の伸縮性というものを考えない。今まで全国書店に直接送っておった関係もあって、どうも”おしきせ販売”の観念がぬけないのですね。これが実業之日本社に抜かれた理由だと思います〉註②