日本に「雑誌の時代」をもたらした、革命的な二つの制度の誕生

大衆は神である(36)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

雑誌『講談倶楽部』の売り上げを伸ばそうと清治が悪戦苦闘しているその頃、出版業界では、二つの革命的な流通制度が整備されつつあった。「定価販売制」と「返品自由制」──これが大正の日本に「雑誌の時代」をもたらすことになる。

第四章 団子坂の奇跡──東京堂・講談社枢軸の形成⑵

日本一の本屋

このころの大野は西伊豆での療養を終えたばかり、痩せて眼ばかりがギョロリとし、どじょうヒゲの目立つ貧相な男だったらしい。東京堂の古参幹部たちからすれば、彼はただ主人の縁戚のはしくれというだけで、取次の実務を何も知らぬヨソ者にすぎない。

しかし、大野はヨソ者だけに取次業界のアラがよく見えた。当時の東京堂は、年間売上高が100万円を超えていたのに利益はひどく少なく、他業界を知る大野を驚かせた。店員たちは安月給のうえ年中ほとんど無休で、早朝から夜遅くまで、ゴミだらけになって働いていた。

大野はまずボロボロに傷んだ社屋の建て直しにかかった。次々に運び込まれる本や雑誌が作業室や事務室を占領し、人のいるスペースがない。社員数十名の寝室は食堂兼用で、バタバタ布団を片づけたあと、空中にホコリが舞っているなかへ飯びつが運び込まれ、みそ汁のふたがとられるのだから不衛生きわまりない。

 

明治44(1911)年10月、表神保町に3階建て新社屋が完成した。ところが、この建物が使えたのはたった1年4ヵ月にすぎなかった。大正2(1913)年2月、神田の大火で灰になってしまったのである。

ついでに申し添えておけば、この大火の後、東京堂から目と鼻の先の焼け跡に貸家が建ったのを幸い、古本屋をはじめたのが、女学校の教職を辞したばかりの岩波茂雄である。

大野は大火の翌日から仮店舗で営業をはじめ、6万2000円の火災保険金をもとに同年末、アーチ型ガラス天井の4階建て社屋を完成させた。正面中央にローマ字でTOKYODOと記された建物は神田名物のひとつになった。

地方から来た観光団が人力車を連ねて前を通るとき、車夫は必ず大声を張り上げて、「これが日本一の本屋、東京堂」と説明した。

共倒れは避けねばならない!

新社屋竣工の目途がついた大正2年秋、大野は業界改革に向けて動き出す。問題は雑誌の乱売競争である。このころの雑誌は定価があってないに等しく、人気の月刊誌『実業之日本』ともなると、小売店では卸値が8銭1~2厘のところを、客寄せのために8銭で売る始末だった。

それが結局、取次業者にはね返って出血的な値で卸さざるを得なくなる。困ったあげく取次業者間で協定を結んでも実効がなく、血みどろの乱売競争はいつ果てるとも知れなかった。