「谷根千」と呼ばれ、観光や食べ歩き、散歩コースとしても人気の谷中・根津・千駄木エリア。その中でも、下町の風情を残す活気に満ちた商店街「谷中銀座」の一角に、いつ開いているのかわからない不思議な店がある。
 
平日はいつもたいていシャッターが閉まっているので営業していないのかと思いきや、よく見ればシャッターに貼り紙がある。営業日のお知らせだ。店が開くのは、ほぼ週末のみ。しかも、午後3時半からの数時間。オープンを待ちかねたように店の前には行列ができるが、商品はあっという間に売り切れてしまう。夕方になると、店の周囲は、お目当てのものを手にしたお客さんたちの笑顔と、えもいわれぬ香ばしい匂いに包まれる。
 
そう、この店は、知る人ぞ知る焼き鶏の名店「谷中 コバヤシ」なのだ。

開店直後はこのように美味しそうに焼き鶏が並ぶ。その日の仕入れによってあるものとないものもある
飲食店業経営をして、「地獄を見た」経験をしている漫画家で小説家の折原みとさん。自身も料理大好き、食べるのが大好き、おもてなしも大好きだからこそ「飲食店」に対しての思い入れは強い。その折原さんが出会った、町の小さな焼き鶏屋の魅力を探ると、「飲食店経営」のひとつの在り方が、はっきりと見えてくる。

午後3時半開店、売り切れ次第閉店

「コバヤシ」は一見して年季の入った古い店だ。店構えも設備も、昭和の時代から変わっていないようなレトロ感。ブロイラーの鶏は使わず、こだわって選び抜いた国産平飼い鶏肉使用の炭火焼き鶏と、生肉を扱っている。それにしても、週末を挟んだ数日間の、わずかな時間限定でしか営業しないのは何故なのだろう? だいいち、その程度の商売で店は存続できるものなのだろうか?
 
めったに開いていないのに、開ければ行列の人気店。地元の人たちや通の鶏肉ファンに愛され続ける「コバヤシ」とは一体どんな店なのか……?
 
その人気の秘密を探るべく、オーナーご家族にお話を伺ってみた。

インタビューに伺った夏の夜、6時には既にこの張り紙が。茂樹さんは海外をベースに仕事をしていたので英語も堪能。谷根千を訪れる外国人観光客にも人気だ

取材に伺った日曜日も、午後3時半に開店して、6時には焼き鶏がほぼ完売状態。店の奥の畳の部屋で、店主の小林恭子さんが焼きたての焼き鶏とビールを勧めてくれた。取材だというのに何という幸せ……! 生からしっかり炭火で素焼きし、タレをつけてさらに炭火で仕上げた焼き鶏の美味しさは格別だ。並んででも食べたいという気持ちがよくわかる。

奥側は「おいしいヤキトリ」という名の卵巣、皮、砂肝、キンカンがはいったもの(120円)、手前が「おいしいレバヤキ」(150円)。部位によって下ごしらえをし、炭火で焼き上げる

恭子さんは現在58歳。ふっくら色白の顔は若々しくお元気そうに見えるが、実は昨年乳がんの手術をして、放射線や抗がん剤の治療を受けているという。「コバヤシ」が週末を挟んだ数日間しか店を開けないのは、恭子さんの健康上の理由からだった。
 
「店は古いこともあり夏は暑いし冬は寒い。労働環境最悪です。抗がん剤治療を受けながら働くのは体力的にもきついので家にいたら?と言われるけど、やっぱりお店にいたいんです」という恭子さんを、夫の茂樹さんと娘の舞子さんが笑って見守っている。

「店を継ぐ予定」はなかった

 一家の中心となって店を切り盛りする恭子さんだが、もともとこの店の跡取り娘だったわけではない。26歳の時、海運会社の関西支社に勤めていた茂樹さんと出会い、結婚して兵庫県西宮から嫁いできたのだ。商売には縁のない公務員の家庭で育った。茂樹さんは会社勤めのかたわら演劇や音楽活動もしていて、店を継ぐ気はなかったため、結婚した当初は商売を手伝うことになるとは夢にも思っていなかった。