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日本人であることを強要された「元BC級戦犯」の苦悶

いつ命を奪われるか分からない日々に…

第198回通常国会が1月28日、開幕した。春の統一地方選、夏の参院選と選挙イヤーをにらみ与野党による論戦が展開されるだろう。メディアの関心もそこに集まりそうだ。

記者たちの目にはとまらないかもしれないが、74年前に終わった戦争で今も苦しんでいる人たち、たとえば旧植民地出身の元「BC級戦犯」が成立を待望している法案がある。毎日新聞学芸部の栗原俊雄記者が報告する。

 

今も続く「戦争」

「ああ、すっかり変わってしまいましたね。私の宿舎はあそこにありました」。東京屈指の繁華街・池袋、サンシャインシティの公園で、李鶴来さんはそう話した。2015年、8月のことである。

李さんは1925年、朝鮮半島南西部の全羅南道で、小作農の長男として生まれた。郵便局員などとして働いた後の1942年、17歳で軍属、捕虜監視員となった。前年の開戦間もなく、日本軍は東南アジアで占領地を拡大していった。それに伴い、連合国軍の捕虜が増えた。それを監視する人員が必要になり、植民地の朝鮮や台湾で募集していたのだ。

成績優秀だった李さんは、村役場から受験するよう勧められた。「拒否することはできませんでした」。役場ごとにノルマがあったという。

その後2カ月間、釜山で捕虜監視員としての訓練を受けた。「声が小さい、姿勢が悪い」などの理由で、上官から何度も殴られた。「立派な日本人にしてやる」と。命令は絶対。「生きて虜囚の辱めを受けず」=捕虜になることを厳しく戒める「戦陣訓」を暗唱させれらた。

戦時下とはいえ、国際法によって捕虜には人道にかなう待遇が保障されていた。しかし「捕虜になるくらいなら死ね」と教えた大日本帝国は、それを捕虜監視員に教育していなかった。李さんはまったく知らされていなかった。

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訓練を終えた李さんは、泰緬鉄道で働く捕虜の監視員となった。タイとミャンマー(現ビルマ)を結ぶ鉄道で、映画「戦場にかける橋」の舞台として知られる。劣悪な衛生環境と過酷な労働、食料事情などで捕虜およそ1万人が死んだとされる。

連合国軍捕虜は大柄だった。少年の面影を残す李さんは「最初、怖かった」。しかし「なめられてはいけない、と思いました。そういう教育を受けましたから」。

泰緬鉄道は、ビルマを守りさらにイギリスの植民地インドをうかがう日本軍にとって、死活的に必要なもので、建設を急いだ。鉄道を敷設する部隊は毎日、労働に必要な人員を出すよう捕虜監視員に命じた。李さんは捕虜側の責任者にそれを通達する。捕虜たちは疲弊しており、病人も多い。

捕虜側が、求められた人員を出せない、と言ってくることもあった。しかし「上官の命令は絶対」とたたき込まれた捕虜監視員たちは、病気の捕虜らを作業にかり出すこともあった。

非情である。しかし日本軍の命令体系の末端にいた李さんたち捕虜監視員に、その非情な措置の意志決定権はない。多数の捕虜を死に追いやった責任は意志決定権を持つ軍体系の上層部にこそある。さらに言えば、戦争を始めた為政者たちにこそあった。

しかし、そうした国家意志決定者たちが李さんたちのように最前線に立つことはなく、したがって捕虜たちと接する機会もなかった。捕虜たちの憎しみは、直接接していた捕虜監視員に向かったのだ。