撮影/森清

冬の女王・広瀬香美がそれでも歌い続ける理由

『ロマンスの神様』も歌えなかった

「もう歌えないと思ったことですか……? 実は、あります。かなり前のことですが、1年間くらい、声がかすれて歌えなくなってしまったことがあるんです」

『ロマンスの神様』をはじめヒット曲を多く輩出した広瀬香美。「冬の女王」は現在コンサートツアーの真っ只中だ。長年にわたり、なぜコンディションの調った歌声をキープできているのだろうかと思わせられるが、実は「歌えなくなった時期」があるという。歌手生活27年目の高音の歌姫に、なぜここまで歌えるようになったのか、そして歌えなくなるとはどういうことかを聞いた。

(インタビュー・文/梅津有希子 撮影/森清)

 

誰も真似できないアカペラコンサート

スキーゲレンデで、テレビCMで……「彼女の歌声を聞いたことがない」という日本人は少ないのではないだろうか。広瀬香美といえば「高音」の美声。先日行ったコンサートでは、2009年に171万枚の大ヒットとなった国民的「冬ソング」『ロマンスの神様』にてアカペラを披露した。

今すぐ動画でお見せできないのが残念なほど、感動的なものだった。自らの弾き語りで素晴らしいクオリティ。声量が衰えてキーを変えたり、ビブラートでごまかしたりする歌い手も多いなか、広瀬の歌声はまったく変わらない。ハリのあるハイトーンにパワフルでのびやかな歌声は、健在どころか円熟の域に達し、ますます磨きがかかっているようにすら感じる。そもそもこの声は天からの授かりものだったのだろうか。

広瀬香美(ひろせ・こうみ)音楽家(歌手・作曲家・作詞家・音楽監督)福岡県出身。5歳より音楽の英才教育を受け作曲家を志す。福岡女学院中学校・高等学校(音楽科)、 国立音楽大学音楽学部作曲学科卒業後渡米。LAにて、マイケル・ジャクソンのヴォイス トレーナーであるセス・リッグス氏に師事。 滞在中に制作した自作のデモ音源が、レコード会社の耳に留まり、1992年にビクター音楽産業 (現・ビクターエンタテインメント)よりデビュー。1stシングル『愛があれば大丈夫』を発表後、 『ロマンスの神様』などのヒット曲で「冬の女王」と呼ばれる。LA在住で、日本とアメリカの双方を音楽や文化のレベルで繋げていくために積極的に活動している。

「音楽をやらされていた」幼少期

広瀬は、「女の子も手に職を」という親の意向で5歳から音楽の英才教育を受け、現在に至るまで音楽漬けの環境で育っている。意外なことに「音楽は大嫌いだった」という。

「5歳からピアノを習い始めたんですけど、同時に作曲も教わっていました。ピアノの先生が音大の作曲学科出身の方で、遊びがてら『フレーズを作ってみましょう』と作曲も教えてくれていたんです。楽譜の書き方も教えてくれました。

親が言うには、私は最初から絶対音感があって『この子は音楽の才能がある』と思ったみたいで……。私はひとりっ子なんですけど、父がサラリーマン、母親は専業主婦ということもあり、手に職をつけさせるために本気で音楽を学ばせようと思ったようです」

幼稚園の頃からピアノと作曲のほか、和声学や楽典など総合的に習っていたというから驚きだ。筆者も幼少の頃からピアノを習い始めたが、譜面を追って曲を弾くだけでせいいっぱい。広瀬の両親が、彼女を本気で音楽家に育てようとしていたのがわかる。

「両親は音楽経験がないんですけど、練習はとても厳しかったです。先生も厳しいけど、親も厳しい。練習しないとごはん抜きというくらいの英才教育ぶりでした。毎日1時間40分練習するんですけど、終わった頃に母が来て、『最初の20分、気持ちが入っていなかったから20分延長』とか言われる。土日は父も家にいるので、振り向いたらソファに座って練習風景を見ているんです。だから逃げられず、ピアノも音楽も大っ嫌いでした。自分の意思ではなく、『やらされていた』んです」

この「やらされていた」という発言にとても共感した。筆者も厳しい練習環境で、サボッたのがバレると目の前で本や文房具などを捨てられもした。つまり、スパルタそのものだったからだ。母親が怖くてピアノが大嫌いになり、次第にレッスンに行かなくなった。

似たような環境で育った広瀬は、なぜやめようと思わなかったのだろうか。

「私には『やめる』という選択肢がなかったんです。子どもだったので反抗する術を知らない。家を飛び出すこともできない。今の時代なら引きこもって抵抗すればいいんでしょうけど、福岡の田舎に住んでいてそういうことも思い浮かびませんでした。とにかく『ずっと音楽を続けるのが当然』という環境で、中学と高校は音楽科に進みました」