江戸の市川團十郎もトリコになった『通俗三国志』とは?

局アナが語る「三国志の日本史」①
箱崎 みどり プロフィール

『三国志演義』の完訳である『通俗三国志』の前に、抄訳も出ています。

陽明学派の儒学者・中江藤樹が書いたとされる『為人鈔』は、短いエピソードのアンソロジーで、その中に「三国志」関連の話も入っているのです。

文学研究者の徳田武氏は、『三国志演義』にしかない、董卓・呂布・貂蝉の「連環の計」や、関羽の子・関索の話があることから、『為人鈔』の一部は『三国志演義』の抄訳であり、現在確認され得る中で最も早い翻訳だとしています。

日本語に訳したのは誰か

そして、同じように興味を惹かれた「誰か」が、湖南文山というペンネームで『三国志演義』を完訳。『通俗三国志』として元禄2(1689)年から3年間にわたって世に出されました。

現存している最古の『三国志演義』の刊本である嘉靖本が中国で出版されてから167年後、世界初の『三国志演義』の翻訳・満州語訳の完成から29年後のことでした。

湖南文山が誰だったのか、正確には分かっていません。

五山文学で知られる五山の一つ、京都・天竜寺の僧侶、義轍・月堂兄弟だという説や、『通俗漢楚軍談』『通俗両漢紀事』『通俗唐太宗軍艦』の訳者である夢梅軒章峰・称好軒徽庵(きあん)兄弟だという説、両者を結び付けて、義轍・月堂兄弟のペンネームの一つが夢梅軒章峰・称好軒徽庵兄弟だという説、さらには、どれも当たらないとする説もあり、それぞれの詳細も定かではありません。

当時、京都と鎌倉の五山の寺は、日本でトップクラスの研究機関。前出の田中尚子氏は、五山周辺で生まれたかははっきりしないが、権威付けのために五山の名が持ち出された可能性も指摘しています。

ただ、『通俗三国志』の本文を検討すると、同じ語彙に対して訳語が違ったり、簡潔/丁寧など訳文の特徴が違ったりすることなどから、複数の訳者によるものという説が濃厚です。

いずれにせよ、『通俗三国志』は、見事に全編の翻訳を成し遂げていることから、知識人(たち?)が情熱を傾けて訳出したことが窺えます。

翻訳に駆り立てたエネルギー

一方で、湖南文山に翻訳を頼み、『通俗三国志』の出版を援助したのが誰だったのか、こちらの記録は残っています。

古藤文庵の随筆『閑窓独言』によれば、西川嘉長という人物です。西川嘉長は、対馬藩の寺院・以酊庵(いていあん)で『三国志』の講釈を聞き、『通俗三国志』の刊行を思いついたといいます。

以酊庵は、幕府が朝鮮半島からの使者の接待をするなど、江戸時代に外交折衝の役所の役割を果たした寺院です。京都の五山から交代で学僧が派遣されており、その学僧によって、漢籍の講釈が行われていました。

『通俗三国志』翻訳者の湖南文山が五山の学僧と考えられている理由のひとつが、ここにあります。

さて、知識人たちを夢中にさせ、湖南文山を『三国志演義』の翻訳に駆り立てたエネルギーは、どこから生じたのでしょうか?

これは推測するしかありませんが、まず、物語自体が魅力的であったことと、知識人たちが憧れる文化先進国・中国で生まれた小説であることが挙げられるでしょう。

そもそも『三国志演義』は面白いので、読み始めると止まりませんし、硬い歴史書ではなく、面白い小説を読みながら、中国の言葉や文化、さらには、おおまかな歴史の勉強もできるとなれば、これを読まない手はありません。

そして、中国大陸を舞台にしているという、日本の軍記物語を超えるスケールも、当時の人々にとっては、輝いて見えたのではないでしょうか。

争われる土地の広さも、自然条件も、登場人物の数も、規模の大きさは比べ物になりません。行くことが叶わない異国の風を感じながらページをめくった学者たちも多かったのかもしれませんね。

さらに、戦乱の世が終わり、太平の時代になったことも、翻訳や出版を後押ししたことでしょう。知識人たちの間でもてはやされた『三国志演義』は、日本語に翻訳・出版されて、広く人々の間に知られていくのです。

『通俗三国志』は、江戸時代を通して版を重ね、明治時代になっても新版が多数出るなど隆盛を極め、昭和14(1939)年から連載が始まった、吉川英治『三国志』の主要なタネ本にもなるなど、長い間、広範な影響力を保ち、江戸の大衆文化の中にも溶け込んでいきます。

その理由を、文芸評論家の山本健吉氏は文体に求めています。

「ひたすら『演義』の持つ生命力の根源に分け入り、その不思議に生気躍動している、エネルギーに充ちた文体の魅力を、和文に移そうとして成功したのである。これが長く、広く『通俗三国志』が読まれてきた秘密だと思う」

「江戸時代における最高の文体、少くとも最高の物語的文体を達成しているのではなかったら、それほど長く愛好されることがあったろうか」

「『通俗三国志』は、その強い律動的な叙述力によって、新しいロマンの文体を発見している。そこには豊かな時間の蕩尽感がある。そこには人間の運命が描き出されている」

と、言葉を尽くして湖南文山の功績を高く評価しています。

文学研究者の金文京氏が「(日本語での翻訳が早く行われたことが)その後の日本人と三国志との関係を濃密なものにしたということは言えると思います」と語っているように、「三国志の日本史」にとって、『通俗三国志』が世に出たことは、大変重要なポイントだと言えるでしょう。