江戸の市川團十郎もトリコになった『通俗三国志』とは?

局アナが語る「三国志の日本史」①

皆さん、初めまして。ニッポン放送のアナウンサー・箱崎みどりです。

普段はラジオ局・ニッポン放送(AM1242、FM93)で「草野満代 夕暮れWONDER4」(月~木曜16時から)などの番組を担当している私ですが、実は、大の「三国志」好きです。

小学2年生で「三国志」に出会い、それ以来、ずっと「三国志」のことを考え続けています。大学・大学院では「日中戦争期の三国志ブーム」をテーマに研究していました。そこでは、今まで世に出ていなかった発見もいくつかできたと自負しています。

「三国志」のどこに魅力を感じるかは、人それぞれ違うと思いますが、私にとって一番のポイントは、何と言っても、日本におけるバリエーションの豊かさ! その世界を少しでも知っていただければ、次々と読みたくなると思います。

今年は、特別展「三国志」が、東京国立博物館で7月9日から、九州国立博物館で10月1日から行われます。「三国志」が改めて注目を浴びることは確実です!

そこでぜひ、今から「三国志」に関心を寄せてみてはいかがでしょうか?

日本の「三国志」の豊かな世界について、第1回目は江戸時代に焦点を絞って、お話ししていきます。

註:私の話を聞いていただく前に、『三国志演義』とはいったい何だろう? という方は、井波律子先生のPR誌「本」エッセイをご一読ください。

二代目市川團十郎も魅了された

先月、歌舞伎役者の市川海老蔵さんが、2020年5月に十三代目市川團十郎を襲名すると発表し、大きな話題になりました。

市川團十郎は、江戸時代から連綿と続く歌舞伎の大名跡。歌舞伎俳優の名跡が代々受け継がれていくきっかけを作ったのが、初代團十郎の後を継いだ、二代目團十郎だと言われています。

その二代目、実は「三国志」に魅了された一人なのです。

七代目市川團十郎が選定した市川宗家のお家芸、歌舞伎十八番の中には、ずばり「関羽」(「三国志」の登場人物・蜀の武将)という演目もあります。原題は「閏月仁景清」。元文2(1737)年に、二代目市川團十郎が河原崎座で初演しました。

九代目市川團十郎の寿帝公関羽(画/ 鳥居忠清・鳥居清貞)

あらすじは、三河守範頼が王位をうかがっていると気付いた景清が、張飛の姿で範頼の館へ忍び込むと、畠山重忠は関羽の姿で馬に乗って登場し、二人が大活躍するというもの。

関羽は大髭、唐装束、青竜刀を振り回しての荒事だったそうで、今に続く関羽のイメージが確立していたことも窺えます。

「関羽」は、歌舞伎十八番が選定された天保年間の時点で、既に上演が絶えていて詳細は残されていないということですが、明治以降、復活上演も行われました。最近では、昭和60(1985)年、二代目尾上松緑が、国立劇場で上演しています。

また、同じく歌舞伎十八番「助六所縁江戸桜」にも、関羽の名が出てきます。「助六」物を始めたのも二代目團十郎で、「花館愛護桜」の初演は正徳3(1713)年。「助六所縁江戸桜」と同じように、関羽への言及があったかもしれません。

二代目市川團十郎が、『通俗三国志』に夢中になった時期があったことは確かなようです。享保19(1734)年の日記には、『三国志』『通俗三国志』を貸し借りしたとの記述があり、関羽の絵についての俳句も残すほどです。

二代目市川團十郎は、そのほかにも、「瑞樹太平記」(元文4年)、「東山殿旭扇」(寛保2年)、「復花金王桜」(宝暦6年)で関羽を演じています。

『三国志演義』日本語訳、その前史

このように、歌舞伎界の大スターも虜にしていた『通俗三国志』とは、どんな本だったのでしょうか?

まず、中国では、三国時代について書かれた歴史書『三国志』が生まれてから、講談や芝居といった語り物として「三国志」の世界が拡がり、元末明初に小説『三国志演義』が成立しました。

今残されている写本で最も古いものは、弘治7(1494)年のもの、そして、最も古い刊本は、嘉靖元(1522)年に刊行されました。

『三国志演義』は、中国で生まれてから、比較的早い段階で日本に入って来たようで、一番早い記録は、慶長9(1604)年。徳川家康にも仕えた朱子学派の儒学者・林羅山の既読書の目録に、『通俗演義三国志』が登場します。

他にも、16世紀後半から17世紀初頭の駿河御譲本の記録や、天海僧正の蔵書目録でも、『三国志演義』が確認できるので、江戸時代初頭には『三国志演義』が日本に流入していたことが分かります。

林羅山の息子・林鵞峰(がほう)も『三国志演義』に目を通して興味を持ったのか、自らの日記『国史館日録』の中に、史書『三国志』に、返り点や仮名などの訓点を加える加点を行った旨と、考察を書き加えています。

魏の武将、諸葛誕についての記述では、「小説」で言われる、諸葛瑾・諸葛亮・諸葛誕が兄弟だという説を否定しています。この説は、史書『三国志』にはなく、『三国志演義』や『世説新語』に載っているので、林鵞峰が「小説」と書いたのは『三国志演義』だった可能性もあるでしょう。加えて、林鵞峰は、孔明を賛美する詩も作っています。

さらに、鵞峰の弟子・田中止邱(しきゅう)が和刻本『三国志』を刊行しています。文学研究者の田中尚子氏は、『本朝通鑑』の編纂に当たり、史書『三国志』が参照されたと言います。

古義学を提唱した儒学者・伊藤仁斎も孔明について論じていて、執筆時期不明の「論諸葛孔明非王佐之才」、そして、寛文3(1663)年の「読諸葛孔明伝」が残っています。

こうした、知識人の間での『三国志』『三国志演義』に対する関心の盛り上がりが、邦訳『通俗三国志』を生むのです。