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「明治以来の大転換」大学入試改革でこれまでの常識が通用しなくなる

「一律と公平」から「多様と公正」へ
記憶中心の試験対策では通用しない、論理力が試されるようになる……、明治以来の教育の大転換ともいわれる新・大学入試。大学入試改革が抱える光と影とは? 2020年以降求められる力とは? 今月刊行された『中高生からの論文入門』の著者の一人で、論文論の第一人者である小笠原喜康氏が解説する。

明治以来の大改革

大学入試が、2020年から変わり始める。この改革のために、すでにプレテストが実施され、だんだんその姿がみえてきている。その問題は、回答が複数だったり、よくよく考えないと間違えやすかったりと、いままでの常識が通用しないようだ。

だがこの改革の中心は、そうした問題の出し方ではない。それ以上の大きな転換がなされている。それは、「一律と公平」から「多様と公正」への切り替えである。少し大げさにいえば、明治以来の近代教育の大転換といえるかもしれない。

かつて共通一次試験(現・センター試験)は、偏差値を導入して全国の大学の序列化をすすめた。この入試改革は、その弊害を和らげることになるかもしれない。だがしかしその一方で、大学の二極化をもたらし、階層格差を拡げることになるだろう。

この改革にむけての中央教育審議会答申がでたのが、平成26年(2014年)だった。それも暮れも押し詰まった12月22日に、「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について――すべての若者が夢や目標を芽吹かせ、未来に花開かせるために」(以下、「高大接続答申」と略記)という、長ったらしい名称で登場した。その中で高大接続答申は、こうのべている。

〔前略〕我が国の社会全体に深く根を張った従来型の「大学入試」や、その背景にある、画一的な一斉試験で正答に関する知識の再生を一点刻みに問い、その結果の点数のみに依拠した選抜を行うことが公平であるとする、「公平性」の観念という桎梏は断ち切らなければならない。〔中略〕そのためには、既存の「大学入試」と「公平性」に関する意識を改革し、年齢、性別、国籍、文化、障害の有無、地域の違い、家庭環境等の多様な背景を持つ一人ひとりが、高等学校までに積み上げてきた多様な力を、多様な方法で「公正」に評価し選抜するという意識に立たなければならない。(7-8頁)

日本は、明治5年(1873年)に「学制」を発布して、身分によらない四民平等の教育をスタートさせた。それは、能力によって等しく競争できる教育制度の出発でもあった。そこでは、誰の目にも明白な点数による評価が採用され、一律で公平なテストが重視された。長野県松本市に残る「旧開智学校」の資料室には、明治初期から○×と点数によって子どもたちが評価されていたことを示す答案が残されている。

公正は公平にはできない

しかしこの新しい大学入試改革は、この「一律と公平」をやめて、「多様と公正」へと切り替えようとしている。これはどんな変化なのか。わかりやすくいえばそれは、テストの点数よりも、受験者の個々の特性を重視しようというものである。こういえば、この改革はとてもいい変化といえそうにみえる。だが、はたしてそうだろうか。 

この改革のモデルとなったアメリカの大学、とくにアイビーリーグと呼ばれる東部名門私立大学では、各国の外交官の子ども、代々続く名家の子ども、大金持ちで多額の寄付ができる親の子ども、などは無試験状態で入学できる。それも一つの重要な資質と考えられるからである。とはいえ、国立大学中心の日本では、アメリカのようにはならないはずだ、と皆さんは思うかもしれない。

アイビーリーグは教育改革のモデルとなった(photo by i Stock)

だが話はそう簡単ではない。前述の「高大接続答申」では、「年齢、性別、国籍、文化、障害の有無、地域の違い、家庭環境等の多様な背景を持つ一人ひとりが、高等学校までに積み上げてきた多様な力を、多様な方法で「公正」に評価し選抜する」とのべていたことに注目してもらいたい。もちろん、「多様と公正」がすぐに階級格差を生み出すとまではならないだろう。だが、すでにあるさまざまな差別や格差を、助長する恐れはあるのではないか。いくつか可能性としての例をあげてみよう。