世紀の発明「フラッシュメモリーを作った日本人」の無念と栄光

こうして彼は会社を追われた
週刊現代 プロフィール

質はいいが、売れない

'71年、東芝に入社した舛岡は、武石に見込まれた通りの目覚ましい活躍を見せる。入社からわずか4ヵ月で、フラッシュメモリーの原型となるSAMOSというメモリーの改良に成功。入社5年目には、さらに別のタイプのメモリーも開発した。

独創的な発想を武器に、順風満帆の研究者人生を送るかのように思われた舛岡だったが、入社7年目の'77年、初めての挫折を味わう。

その頃、東芝は「DRAM」と呼ばれるメモリーを開発していた。

当時、この分野でトップを独走していたのが米国のインテルだ。自分たちが手掛けた製品の質には絶対の自信があるものの、後発でシェアを獲得できない状況に業を煮やした舛岡は、なんと営業への異動を志願して渡米する。

「『俺が売ってやろう』と威勢よく向こうに渡りました。ところが、東芝のDRAMは性能が良いぶん高価だったので、価格競争力が低かった。コストを下げなければお客さんには売れないということを、身をもって味わいました」(舛岡)

 

自ら望んで異動したにもかかわらず、営業として成果を残せなかった舛岡への視線は、冷たかった。古巣の研究所に戻ることはできず、半導体製造工場への異動を命じられる。

そこでも生産コストの低減などで成果を出したものの、待てど暮らせど復帰の声はかからない。

〈もう一度、研究の現場で新技術を作りたい〉

舛岡は実に10年近いブランクを経て、ようやく研究所へと戻り、グループ長に就任した。

新技術開発に執念を燃やしていたある日、舛岡の頭をよぎったのは、かつて営業時代に米国で顧客に言われた言葉だった。

「性能は低くていいから、もっと安くならないのか」

あえて性能を抑えてでも、「需要に見合う技術」を作らねば。舛岡は新たな仮説を立てる。

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