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世紀の発明「フラッシュメモリーを作った日本人」の無念と栄光

こうして彼は会社を追われた

会社のためにどれだけ骨身を削って働こうと、努力が報われない。そんな逆風のなかでも自らの信念を貫き続け、世界的偉業を成し遂げた男がいる。今日発売の「週刊現代」で、決して平坦ではなかったその苦悩の道のりを追う。

ジョブズと並ぶ日本人

「フラッシュメモリーの登場によって私達の生活は驚くほど一変しました。この発明による舛岡さんの社会への貢献は、同じエンジニアの目から見てもノーベル賞に値するほどの価値があると思います」(半導体メモリー開発企業・フローディアの奥山幸祐社長)

米国、シリコンバレーにあるコンピューター歴史博物館。スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツといった錚々たる面々と並んで、一人の日本人の写真が掲げられている。

舛岡富士雄(75歳)。あまり聞き馴染みのない名前かもしれないが、'87年、東芝の研究者時代に「フラッシュメモリー」を世界で初めて開発した人物だ。

小さく、安く、大容量。そして何より、電源を消してもデータが消えない。かつて主流だったメモリーは、電源を消すとデータが消える弱点を抱えていた。

この課題を克服する画期的な記憶装置として、フラッシュメモリーは、パソコンから携帯電話まで、身の回りのあらゆる製品に使用されている。

いまや、その市場規模は7兆円とも言われる「世紀の発明」だが、舛岡の名はおろか、この開発が日本人によって行われた事実すら、知る人は多くないだろう。

舛岡本人が語る。

「どれだけ世の役に立つ発明をしても、成果物は会社のもので、それを作り出した本人は評価されないのが現実でした」

舛岡は、フラッシュメモリーの試作品を開発してから7年後の'94年に、51歳で東芝を去っている。その後は母校である東北大学大学院の教授となり、退官するまでを過ごした。

したがって、東芝でフラッシュメモリーが実用化され、市場を席巻していくさまを、その一員として見ることはなかった。

なぜ、革新的な発明をした天才は、東芝を去らなければならなかったのか。そこには無念と栄光の物語があった―。

 

舛岡は、東北大学大学院で半導体の権威・西澤潤一教授に学んだ。時代は高度成長の真っ只中、就職時には多くの企業から声がかかったという。

「大手メーカーのなかには、芸者さんがいるような料亭で接待し、ハイヤーで送迎までしてくれるところもありました。

一方、東芝は研究所に所属する武石喜幸さんという方が上野駅に来て、駅構内にある立ち食いそば屋で、かけそばを一杯奢ってくれただけ(笑)。

しかし、他社の人たちが、既存の製品の魅力ばかりを説明するのに対して、武石さんは『まだこの世に存在しないものを作ろう』と語りかけてくれた。こういう人と一緒に働きたいと思いました」(舛岡)