国連も問題視する「組み体操」が、それでも巨大化しているナゾ

立派な教育活動、なんですか…?
内田 良 プロフィール

「痛くても重くても我慢しなさい」

八尾市立中学校の事故では、崩落により生徒6名が負傷し、うち1名が右腕を骨折した。また、「関西体育授業研究会」の報告によると、過去には巨大ピラミッドの崩落により同時に4名が骨折という事故も起きている(拙稿「四人同時骨折 それでも続く大ピラミッド」)。

巨大な組み方には高いリスクが潜在しているにもかかわらず、一部の地域とはいえ、なぜ学校は巨大化を志向するのか。

〔PHOTO〕iStock

その答えは、巨大なものを皆でつくりあげることに、教師が「教育的意義」を見出しているからである。

たとえば、ピラミッドやタワーの練習時に「痛いと言ってはダメ!」という指導を受けた記憶がある人も多いことだろう。

組み体操における痛みを口に出してはならない理由は、子どもたちにこんなふうに伝えられる――「土台の子は、上の子が安心していられるように、痛くても重くても我慢しなさい。『痛い』『重い』と言っていては、上に乗るのが不安になってしまうでしょう。そして上に乗る子は,土台の子があなたのためにグッと我慢してくれているのだから、土台の子を信じて、勇気を出して上にのぼっていきなさい」と。

かつて組み体操の指導書や学校のウェブサイトでは、クラスメートのために自分の痛みや恐怖を抑え込むことに、組み体操の魅力が見出されていた。それが、クラスのなかに信頼感や一体感を生むというのだ。

 

危険だからこそ「立派な教育活動」になる

そもそも体が痛いということは、組み方がよくないということである。身体に無理な負荷がかかっているのであり、組み方を見直す必要がある。

そして、痛みを我慢すると、事前に崩壊を食い止めることができなくなる。痛い時点で組み方に問題があるにもかかわらずそれを口外できないのであるから、痛みが極限に達したとき,あとは崩壊するしかない。

むしろ「痛い」ということを口外しながら、どのような組み方が最善であるのかを皆で考えていくことこそが教育ではないか。

2016年1月に首都大学東京の木村草太教授がとりあげた組み体操の道徳教材は、衝撃的な内容であった(「これは何かの冗談ですか? 小学校『道徳教育』の驚きの実態」)。高層のピラミッドが崩落して一人の児童が骨折をしたにもかかわらず、それが児童間の心模様の話題として扱われる。そこでは組み体操の問題性がまったく語られない。

巨大な組み体操は、痛みを我慢して実行すること自体が教育活動であり、さらには骨折しようともそれもまた教育活動に回収されうる。もはや巨大組み体操は、危険であるからこそ、立派な教育活動として成立するとさえ言える。何人かの子どもの犠牲の上に一つの形が組み上がるのだとすれば、そのような活動はむしろないほうがマシだ。