雑誌の「大量生産・大量流通」システムを作り上げた企業家の誕生

大衆は神である(35)
魚住 昭 プロフィール

その後、読書人口の拡大につれて地方書店の数も増え、博文館の特約店ではない店も東京堂と取引するようになる。東京堂を通せば、いちいちそれぞれの出版社に注文して取り寄せる手間が省ける。それに、輸送に要する運賃も一括で安くなるという利点があった。

当時、東海堂や北隆館(ほくりゅうかん)も取次をはじめていたが、こちらは新聞の売りさばきが主で、東京堂のような図書雑誌の専門取次ではない。全国を網羅する販売網も持っていなかった。そのため東京堂は短時日で地歩を固め、日露戦争後には名実ともに取次販売界の第一人者となった。

しかし、東京堂は病魔につきまとわれる。まず省吾が結核を患い、店に出ない日が次第に多くなった。次に、支配人の高橋源栄(省吾夫人カウ子の弟)が義兄と同じ病にかかり、明治43(1910)年末に没した。省吾の長男・英太郎も病弱で、経営の激務に耐えられなかった。

 

若き支配人

このため、省吾は明治44(1911)年1月末、満42歳で逝去するに先立ち、「一族の人々に対して具(つぶさ)に東京堂の後事を托されたが、その際、故人はその主宰者として大野孫平を推し、他の人々もまた氏を推挙した」(『東京堂の八十五年』)

大野の母・ヨセは、大橋佐平の妻・松子の妹である。つまり大野は博文館2代目の新太郎や省吾の従兄弟にあたる。省吾より11歳若いが、ウラジオストックで日露貿易に従事したり、博文館グループの博愛堂(薬品取次販売)の代表社員として経営にあたったりした。

血筋から言っても、経験から言っても、東京堂の将来を託せる人材は大野しかいないということで一族の意見が一致したのだろう。

とはいえ、大野自身も丈夫な質(たち)ではない。博愛堂の代表だったとき、無理がたたって神経衰弱になり、会社を辞任した。その後、一度全快し、こんどは独立して薬品取引の大野商店を立ち上げたが、過労で再び神経衰弱になったため、店を人に譲り、西伊豆に転地した。

そこで足かけ3年、土地の住民になって徹底療養した効あり、ようやく全快した矢先に東京堂に支配人として入ることになった。講談社の役員応接室で大野が当時を振り返る。

〈私は創業者の大橋(省吾)が亡くなる二、三日前に東京堂に関係することになったんです。大橋は命(めい)旦夕(たんせき)に迫っておったものですから、月末から店のほうに手伝いに来てくれという話があって、それじゃというので行きましたら、危篤になったからと言って、大橋は鎌倉(の別荘)におったものですから、鎌倉の夫人から電話がかかってまいりましたですがね。

そんな関係でして、家(神田の本店のこと)も古くなっておって危ない。それに病人がたくさんおったものですから、改造して合資会社にして長くつづけようということで、(省吾が亡くなった直後に)十万円の(合資)会社になったわけですがね。

当時、私がすべてをやっておったんですが、私は素人で何もわからない。ただ後かたづけをするというような格好だったわけで……。(業界の実態を見ると)いかにも競争は激しくて、雑誌を一冊売っても一厘、二厘の口銭(こうせん)ではみなやっていけないんですね。どこの取次も……どうにも仕様がないんですが、私のほうはどうにか博文館との特別のこともあり、銀行からは借金しないという建前であったものですから、借金せずにおりました〉