雑誌の「大量生産・大量流通」システムを作り上げた企業家の誕生

大衆は神である(35)
魚住 昭 プロフィール

一番大切なところ

大野は『野間清治伝』に批判的である。その理由はだいたい見当がつく。中村は、清治の人格と業績の偉大さを描こうとするあまり、肝心の清治と大野の関係に目が届いていない。

堀江も大野の意見に同調した。

「この伝記があまり評判がよくないものですから(略)一般に読まれないものですから、そうでなくて誰が読んでも、講談社の根本方針で、ためになるというふうなものを読みやすくして、本当の歴史を……。それには苦心した状態をある程度織り込まないとわかりません」

「それを赤裸々に……(描くつもりなのか?)」

と、大野が訊きかけたとき、役員応接室に4代目社長の野間省一(しょういち、当時42歳)が現れた。省一はのちに“講談社中興の祖”と称される男である。

 

「今度はまた大変にご厄介になりまして」

頭を下げる省一に、大野が困ったような口ぶりで言った。

「なんだか昔のことで、すっかりわかりませんですけれども……だから社のことをよくわかり、社長の真にされたことがよくわかってないと筋が入らないからというので……」

堀江の説明で講談社の意図はある程度わかったものの、まだ踏ん切りがつかない。そんな状態の大野の背中をそっと押すように省一が語りかけた。

「(戦前の講談社の)一番大切なところは大野さんがよく知ってるんで、ほかに知ってる人はいないんですから」

省一の言葉が、大野の気持ちを揺り動かしたらしい。

やがて大野は重い口を開きはじめた。

「そういう点でしたら、赤裸々にすべてお話をいたしまして、よろしゅうございましょうか。今なら発表しても(戦前の元)取次もこういうふうにちりぢりになって(略)いますからお話ししますが、特別なものもありますから、発表も露骨にできないんですが、本当のあれをやっぱり知っておらなくちゃ、本当の歴史にならんということでしたらお話をいたします」

大野の証言は核心へと向かう。結論を先に言わせてもらうなら、雑誌の大量生産・販売を基軸とする近代日本の出版流通システムは、清治と大野のタッグによって確立されるのだが、その詳細を語る前に、読者の頭の中に入れておいてもらわなければならないことがある。

博文館と東京堂

第1章でもふれたように、明治期の出版流通システムの礎を築いたのは博文館(明治20[1887]年創業)である。大橋佐平(さへい)と、彼の長男・新太郎が率いる博文館は、『日本大家論集』を皮切りに各種の雑誌を創刊する一方、矢継ぎ早に全集物や単行本を出しながら、各地の有力書店と特約店契約を結び、博文館の雑誌・書籍を直接取引するルートを開拓した。

博文館は大阪や京都には一手販売の特約店をつくり、そこから市内の各小売店に卸させた。それ以外の中小都市の特約店でも、送ってきた本の中から付近の小さな店に卸すところがあった。これが出版販売業者の組織化の第一歩となった。

一方、社史『東京堂の八十五年』によれば、佐平の次男・省吾(しょうご)が経営する東京堂(明治23[1890]年、書籍文具類の小売店として発足)は明治24年に取次業をはじめた。このときすでに博文館は独自の全国販売網を持ち、販売上の不便さは感じていなかった。しかし、他の出版社は手が足りないで、販路も狭く、地方へはあまり雑誌・書籍は出ていなかった。

佐平はそこにビジネスチャンスを見出した。地方書店に博文館以外の雑誌・書籍を取り次いでやれば、出版社はもちろん書店も読者も喜ぶにちがいない──このアイデアに省吾も賛成し、早速博文館の全国販売網に働きかけて東京堂の取次業開始を宣伝した。

つまり、東京堂は博文館のものも扱うが、むしろ他社の雑誌・書籍を売りさばくほうに力を入れる取次として歩み出したのである。これは、東京堂の方向性を決定づけ、親会社(博文館)のライバルである講談社と密接に結びつく伏線ともなる。