雑誌の「大量生産・大量流通」システムを作り上げた企業家の誕生

大衆は神である(35)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

部数が伸び悩んだ雑誌『講談倶楽部』の編集方針を刷新し、「新講談」を軸にすえて成功を収めた清治。そのころ清治が出会ったある企業家は、のちに、出版業界を支える「流通システム」を大きく変えることになるのだった。

第四章 団子坂の奇跡──東京堂・講談社枢軸の形成⑴

大野孫平

翌大正3(1914)年2月、「新講談」で上げ潮に乗った清治は大野孫平(まごへい)と出会う。この出会いは、清治の出版人生にとって決定的な意味を持つ。

大野は、戦前最大の元取次(出版社と書店をつなぐ全国規模の流通業者)だった東京堂の経営者で、「業界最高の実力者、また指導者として衆望の中心とされつつ、わが出版販売史上に不滅の功績を数多く積み重ねた」(『日本出版販売史』)人物である。

しかし、のちの昭和16(1941)年、東京堂は他の取次業者とともに国策会社・日本出版配給株式会社(日配)に統合され、元取次としては消滅した。大野は三十年余りかかって築き上げた自らの財産のほとんどを事実上、国家に没収されてしまったのである。

 

講談社五十年史の秘蔵資料を見ると、戦後の昭和28(1953)年、講談社の役員応接室で行われたインタビューの速記録には、その大野の戸惑いが色濃くにじみでている。

戦前の講談社と東京堂の関係は際だって深い。業界の巨頭同士だった清治と大野しか知らない秘密がたくさんある。すでに清治が他界し、東京堂が元取次でなくなって久しいとはいえ、それらを打ち明けていいのかどうか大野は迷っている。

「しかし、一体どうなんです。どういう方針でおられるんですか? だいたいのことは奥さん(清治の妻・左衛)がよく承知してると思うんですが……」

と、大野ははじめに問いかけている。何のため自分に話を訊くのか、訊いた話をどう使うのか、講談社の意図を明確にしてほしい。でないと、機微に触れる話はできない。

それに対し、講談社側を代表して元営業部長の堀江常吉が、五十年史編纂の趣旨を説明し、大野の警戒心を何とか解こうとする。

「昔の創業当時から、その次の時代までの経路を残したいということで、大野さんにもいろいろその時代の苦心のお話を……。大野さんは社長(清治のこと)に始終会ってよくわかっていますが、他の者は誰も知らないんですから──奥さんでも知らないところもあるだろうし、講談社の創業のころの記録を残したいというんです」

大野は、清治の自伝『私の半生』(昭和11年刊)と、歴史学者・中村孝也(こうや)の大著『野間清治伝』(昭和19年刊)を挙げながら、こう言った。

「野間さんは『私の半生』をお書きになってるんですから、子供のころから書いてありますね、伝記にも……。こりゃ中村孝也さんが書いているんですが、中村さんは内容についちゃわからない点もあるんですがね。だいたいどういうところからお書きになっているか知らないけれど……」