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カプセル化された「世界」を突き抜ける〝天然知能〟とは何か?

人工知能には到達し得ない領域へ

全体と一個で外部を招喚する

価値や権威をその都度記録として(ブロックに)書き下し、履歴帳簿(チェーン)に組み入れた者には、報酬が支払われる。国家や特定の権威に、意味や価値を委ねるのではなく、それを人々の手に取り戻したい。

その理想はわかりますが、世界の果てまで影響が広がっているかもしれぬ不定な価値や権威を、こうして有限のネットワークに絶えず封じ込めるブロックチェーン技術は、私には、無際限に広がる世界をカプセルに封じ込める行為のように思えます。

 

そういう発想は何度も現れたものです。一個でありながら世界のすみずみまで繫がった全体であるモナドは、哲学者ライプニッツの構想した概念ですが、一個であり全体である両義性は、人間にとっては矛盾でしかない。

モナドは、むしろ神にとってのみ意味のあるものだと思います。モナドを人間のものにしようとするとき、世界全体と一個を媒介する概念が必要となります。

媒介は、哲学において「無限」や「重ね描き」など様々な呼ばれ方をしてきましたが、それは全体と一個という矛盾する概念を封じ込める、カプセル以上の役割を果たさないでしょう。

カプセルは媒介と言いながら、実は無媒介的に全体と一個を一致させてしまう。だからそこで、世界は「わたし」となり、わたしの一挙手一投足は世界に影響を与える。

こういう描像は、それこそ、セカイ系と言われるマンガやアニメで描かれてきたものですが、マンガやアニメに留まらない。むしろ現代の様々な思想、人工知能や社会学、哲学までもが、わたしや世界をカプセルに容れ、その外側を見ないようにしてしまうのです。

ただし、無際限な広がりとしての全体と一個との関係を、まずは取りざたするという動機は、おそらく正しいのです。そこまではいい。全体と一個は、私たちの認識の領域にある。

しかし、そのあとが違うのです。現実の私たちは、この二つを使って、私たちの領域の外部を窺い、外部を招喚しようとするのです。

それを実現するものを、私は天然知能と呼びます(くわしくは『天然知能』講談社選書メチエ、に書きました)。ここで読み違えて、一個と全体をカプセルに容れてしまうのが人工知能的現代なのです。少し説明しましょう。