ZOZO前澤社長「100万円バラまき」に感じるモヤモヤの正体

「きれいでただしい」者だけ救われる?
御田寺 圭 プロフィール

すぐにも助けが必要なほど逼迫した状況に置かれている人が、だれが見ても「助けてあげたい!」と思えるような様態であるとはかぎらない。いや、現実はむしろその逆であることもありえる。その人に接したほとんどの人が「こんな奴は落ちぶれても仕方ない」「勝手にしろ」と考えてしまうような人物であるからこそ、だれからも助けられず窮地に立たされていることすらある。

こうして文章にすると奇妙で、ともすれば矛盾しているように見えるかもしれないが、「だれも助けたいと思わないからこそ、助けが必要な人」が世の中には多くいる。

しかし、「好ましくない者にお金は使われるべきではない」という論理が社会的な「ただしさ」まで伴ってくると、こうした人びとへのまなざしはいまよりずっと厳しいものとなっていくだろう。

「意地汚い奴は排除されて当然だ」「だらしのない奴は相応の報いを受ける」という感覚はもちろんよくわかるのだが、個人的にはそうした考えの広がりのほうがむしろ、社会の歪みや分断をより深めるような気がしてならない。

 

「ポジティブの循環」という暴力

今回の「100万円キャンペーン」が示唆することがもうひとつある。それは「ただしさ」や「ポジティブ」というものが隠し持っている暴力性である。

お金はもちろん、「人気」や「名声」や「夢」、のみならず「希望」「感動」「賞賛」「肯定」といった「ポジティブな概念」は、いまや生まれ持っての富裕層、セレブリティ、ビジネスエリート、優れた教育を受けた将来有望な若者、優秀な人材といった、社会階層における上位層の人びとの間でもっぱら交換され循環するリソースとなった。

一方で、それ以外の人びとには(上位層の人びとは、それらが外部に漏れ出さないように慎重に取り扱っているため)なかなか手に入りにくい「希少品」となっている。

ここで重要なのは、前澤氏のキャンペーンが当初は抽選によるものと考えられていたのと同様、ポジティブな資源は「だれでも公平に、それらを手に入れるチャンスがある」と世間的には一応の前置きがなされていることだ。

志を持って自由競争に参加すれば、だれにでもチャンスはある――それは一面において事実だし、たとえもとは恵まれた環境にいなくても、それによって社会階層を駆けあがり、上位層に入りこめる人もたしかにいる。

しかし全体的な構図としては、上位層が「ポジティブなリソース」をほとんど独占的に循環させている。自由参加・自由応募・自由競争というルールに下位層が乗ったとして、経済的にも文化的にも豊富な資本を持つ階層の人びとと勝負して勝つのは容易ではない。

意図的かどうかは別として、社会の上位層以外には「ポジティブなリソース」が可能なかぎり回らないような仕組みになっている。しかし、それがアンフェアだと看破され、非難されないように「自由参加、自由応募、自由競争」が名目上は謳われる。

だれにでもチャンスが開かれている。そこに参加するのもしないのも自由。ただし参加するからには、しっかりと努力することが求められる――。「成功を掴めるかどうかはその人次第」という、ぐうの音も出ない「正論(これはいわゆる『自己責任論』の双子でもある)」が、こうした独占的循環の構造を後押ししてきたのかもしれない。

前澤氏は今回、氏や氏の所属する階層の人びとが現実の世界でおこなっている「ポジティブなリソースの循環」をネットでも再現したにすぎなかったのだ。

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