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ZOZO前澤社長「100万円バラまき」に感じるモヤモヤの正体

「きれいでただしい」者だけ救われる?

この社会の映し鏡

ZOZO代表取締役である前澤友作氏の「100万円を100人にプレゼントするお年玉企画」が、平成最後のお正月のインターネットの話題をかっさらった。

企画内容は書いて字のごとく、前澤氏が1億円のポケットマネーを100人に配るというものだった。どうやら冗談ではなく、本当に当選者100人に100万円が届けられ、キャンペーンは閉幕したようだ。そして大方の予想どおり、このキャンペーンは激しい賛否を招来した。

「前澤氏はお金が余って仕方ない富裕層なのだから、どのような形であれ散財することは(お金が循環することを意味するので)推奨すべきだし、また前澤氏にかぎらずほかの富裕層も快くお金をばら撒けるような風潮をつくっていくことのほうが、その他の人びとにも中長期的にはメリットとなる」という肯定的な意見(これはいわゆる「トリクルダウン理論」に似ている)が、Twitterなどでは優勢だったようだ。

だが一方で、「お金でフォロワーや人気、名誉を買うのか」、またキャンペーンに応募した人たちに向けた「お金を恵んでもらうために金持ちに媚びへつらうのか」という批判も少なくなかった。

賛否それぞれの意見にも理はあるだろう。私はそれらの立場や主張そのものについて、肯定・否定するつもりはない。というのも、私にとって今回の騒動で気になった点は別のところにあり、それがこの社会のいまの姿を、この社会がいま抱えている歪みを考えるうえで、より重要なことに感じられたからだ。

 

「実は抽選ではなかった」が示していること

私がとりわけ気になったのは、「応募方法は、僕をフォローいただいた上、このツイートをRTするだけ」(前澤氏のツイートより)と謳ったこのキャンペーンが、一見すると「抽選」に基づくように見えながら、その実、前澤氏(あるいはZOZO側)がしっかりと応募者たちの「応募の動機」を吟味していたように思えた点だ。

ただし、だからといって「おいおい、それじゃ抽選じゃなくて選考じゃないか」などとツッコミをいれたいわけではない。

そうではなくて、前澤氏が100万円を「ただしく」そして「きれいに」使ってくれそうな人を選んでいたように見えたことが、「実際は抽選ではなかった」ことなどより、はるかに大きな意味を持っているように感じたのだ。

当選者たちの多くは「社会に役立つことをやりたい」とか「自分の将来の可能性や視野を広げたい」とか「だれかの幸せのために尽くしたい」といった、キラキラとしたポジティブな動機をもって今回のキャンペーンに応募していた人びとだった。

「とにかく遊ぶ金が欲しい」とか「今月の生活費にすら困っているから」といった動機を堂々と表明したうえで当選した人は、私が調べたかぎりでは、ほとんど皆無だったのではないだろうか(もし大勢いたのなら、私の確認不足なのでお詫びしたいところだが)。

しかしながら、今回のキャンペーンに応募したおよそ数百万件の全体を見ると、そうした「ただしく」て「きれい」な動機を本当に持っていた人はそれほど多くなく、大半はむしろ「遊ぶ金欲しさ」とか「生活費に困っている」といった動機から応募した人々ではなかったかと推察する。その中には、少なからず「貧困層」に当てはまる人も含まれていたであろう。

前澤氏は、そうした人びとにお金を配りはしなかったわけだが、これについて「よこしまな動機の人間がハネられるのは無理もない話だ」というリアクションが漏れ聞こえた。こうした反応からは、「ただしく」て「きれい」な者だけが社会的・経済的に救われるべきだという、私たちの潜在的な認識が現れているようだった。