縄文人の「遅さ」と「ゆるやかさ」で、現代が生きやすくなる

限界まで頑張らず、他人と競わない生き方
瀬川 拓郎 プロフィール

現代で、「まれびと」として生きること

ところで、縄文性をとどめた人びとに特徴的なのは、贈与にたいする執着です。

たとえば九州や瀬戸内の家船漁民は、自分たちの捕った魚が金銭で買われることを好まず、陸上の知人に贈りものとして与えました。そして、そのお返しとして祭事などに招待してくれることをよしとし、そのような相手を「親戚」や「いとこ」と呼びました。

この贈答の場には「暖かい応対」がともなったといいます。アイヌも和人商人との物々交換を、土産と返礼という「暖かい応対」のなかでおこなうことに強くこだわりました。

 

このまどろっこしい贈与への執着も、「遅さ」と「共感」の思想ということができますが、最近この贈与と関係して気になっているのが、建築コミュニケーターの田中元子の試みです。

田中は、公園や住宅地などに「パーソナル屋台」を曳いてあらわれます。そして、道ゆく人に無料でコーヒーをふるまい、コミュニケーションをはかることで、マイパブリックとよぶ場を浮かびあがらせます。そこでは町の空気感が変わっていくことを実感できるといいます(『マイパブリックとグランドレベル』晶文社)。

山や海から村々を訪れ、人びとを祝福し去っていくまれびと(来訪神)も、縄文の思想であったと私は考えています。このまれびとはまた、芸能によって人びとを祝福する漂泊者の思想でもあります。どこからともなく現れ、コーヒーをふるまって人びとを祝福し、去っていくパーソナル屋台は、失われたまれびとを現代に再現するものにみえます。

縄文の思想は、贈与にせよ特異な合意の方法にせよ、共感を生みだす「直接的」なコミュニケーションの思想です。つまり縄文の思想は、対面と小さな公共の思想であり、田中の試みはまさに「縄文コミュニケーション」にほかならないのです。

1杯のコーヒーにどれほどの意味があるのか、と考えるかもしれません。しかし、言葉にならないおもいに突き動かされながら、それぞれが小さな屋台を曳いて町にあらわれ、有形無形のなにものかを差しだして人びとを祝福し、ささやかな記憶を残して消え去るこの縄文コミュニケーションこそ、人生そのもの、私たちがそうありたいと願う人生そのものではないでしょうか。

孤立や脱落、劣等のラベリングにおびえる私たちは、身命を賭して働き、強い緊張の日々を送っています。しかし、忘れないでください。人間はもともと競争を忌避し、限界に近づこうとせず、共感し、与え、祝福したい生き物らしいのです。

この生き心地のよさに立ち返るため、むずかしい哲学や思想は必要ありません。それはなにも特別なものではなく、海辺の小さな村で暮らしている少しわがままなおじさんやおばさんたちの、ごくふつうの生き方にほかならないのですから――。