講談師たちの「特権要求」に屈するか…?野間清治の「決断」

大衆は神である(34)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

創刊から5号を経ても部数は伸び悩み、じり貧の「講談倶楽部」。雑誌の発行権をめぐる深刻なトラブルも起きながらも部数が回復してきたところに、講談師たちから難題を突き付けられる――。

第四章 団子坂の奇跡──窮すれば通ず⑶

世の中の為になるものでなければ

清治は翌大正2年の新年号に新進画家・井川洗厓(いがわ・せんがい)の折り込み口絵をつけた。すると、それが予想外の評判を呼んだ。二月号の「編輯室より」には「本誌新年号は非常の好評にて初版直ちに品切れ二版三版、遂に四版まで刷出)すりだし)致し候」と記されている。

それから、『講談倶楽部』の発行部数は9000部から1万部、1万3000部と右肩上がりに伸びていった。ライバル誌の『講談世界』はそれよりつねに2000~3000部少なく、『講談倶楽部』を追い越せない。これは清治にとって得難い経験になった。

なぜなら、当初はライバル誌が何千部か売れると「それだけこっちが減るようにのみ考えておったが、必ずしもそうではない」(口述録より)ということに気づいたからだ。「競争雑誌ができるくらいで、かえってこちらが余計になる。世間の耳目を聳動(しょうどう)するというような意味合いも加わって、一段盛んになるということさえもあるものである」(同)。

 

清治が『講談世界』との競争を通じて学んだことはそれだけではない。のちに彼の出版哲学の根本をなす考え方がこのころ芽生えている。次も口述録の一節である。

〈(『講談倶楽部』には)ことごとく口絵から本文に至るまで、一頁でも世の不為になるものは(略)絶対に載せまいとしてやってきた。(略)為になるばかりでは雑誌は売れないものだというようなことが一時は輿論になっていたが、自分は敢然として世の中の為になるものでなければよく売れない、衆なるものを愚として衆愚衆愚というような言葉が当時はやっていたが、自分は衆賢である。

紙も良くする。頁も余計にする。ちょっと頁を余計にしたぐらいでは素人にはわかるまいと思うのが間違いである。内容も吟味する。ちょっと吟味して稿料を余計に払ったところで無駄なような考えを持つのが間違いである。必ずわかる。衆なるものは賢、衆賢である。神の如く畏れて懼れなければならぬ〉

この年、つまり大正2年2月、清治は大学の首席書記の職を辞した。雑誌経営の自信がつくにつれ、書記をやりつつ「自分の仕事を余計するようなコセコセしたことをしておっては、結局人相も悪くなるし、人間が男らしくなくなる、卑屈になる」(口述録より)と考えるようになったからだった。

〈(大学を辞め)専念一意雑誌に力をこめるということになったので、雑誌編集者として全力を傾注したのはまったくこのときであります。もうこの仕事がうまく行かなければ立つ瀬がない。あのことも考えはじめ、このことも工夫しはじめた。驚くべし、その翌月、大正二年の三月にはいろいろ経営の側で工夫した結果、さらに月々二百円の利益を生み出すことができた。

消極的方面ではあるが、紙の買い方、印刷の仕方といったようなことをいろいろ研究した。そうすると、月々二百円の利益と思ったのが、たちまち翌月四百円になる。それから販売のことも、広告のことも研究しはじめた。その翌月さらに二百円を増加して六百円の利益になる。もうこうなると毎月ソロバンを手にして興味はいよいよわいてきた〉(口述録より)