この社会に存在する「圧力」

私はそれまでそのカフェが大好きだった。居心地がいいし、清掃が行き届き、スタッフもフレンドリーだ。

けど、たった一度きりの嫌な記憶だけで、私はもうその場所が私の味方ではないような気がしている。

気分のいい金曜日の夜に、酔っ払いの多い時間帯に、そのカフェに気楽に足を運ぶことを、もう考えられなくなってしまっている。

もちろん、抗議すればいいことはわかっている。

私はあの男に、ハイネケンの瓶を持った手の中指で指さされるような存在じゃない。そんなことは自明だ。

だけど、それを面と向かって抗議しようとしたときに――本人に向かって「No」と言おうとしたときに、私の呼吸を、足を、立ち上がったその肩を、掴んで止めるものがある。

私はその存在について考える。

この社会の――30年暮らしてきたこの国の――そこかしこに、空気の中に、偏在するその「圧力」を。

そして同時に、あの男を酔っ払わせ、卑猥な冗談を女の子たちに向かって言わせ、グリーンのハイネケンの瓶を持ったまま、対等な人間であるはずの私をまるでモノのように――棚に陳列された商品のように――「指させた」力の存在を。

私たちが争わなければなければならない、その存在について。

〔PHOTO〕iStock

私は怯えている

私はその存在が怖い。

今、こうして書いているときでさえ、私はその圧力に怯えている。

現代ビジネスという「男もの」のメディアで、平易な「女の言葉」で自分の身に起きた主観的出来ごとを語ることに。

「そんなことは大したことではない、私が経験したことにくらべたら」と却下してくる力に。「カッカすんなよ」とか「こんなの主観じゃないか」と言われることに。

異性だけでなく、同性の眼差しにも入り混じるその何か――その力が、私たちにちょっとした差別的な発言に対する反論を封じさせる。

まるで「些細なこと」に抗議するのはおかしなことで、ハッシュタグがつくような重大事件でもなければ男たちは決して女を傷つけてもいないし侮辱もしない、そんなことは無かったことだ、と言いたげなこの社会の雰囲気が、私たちを、その場では力なく笑ってやり過ごさせる。その怒りは後から匿名ツイートになり、ネット上で発散させられる。