阪神淡路大震災直後、作家浅田次郎がどうしても書き残したかったこと

再録 勇気凜凜ルリの色 非常について
浅田 次郎 プロフィール

なぜ自衛隊の出動が遅れたのか

さる阪神大震災に際しては、自衛隊の第一陣が神戸市内に到着したのは、災害発生から七時間後であり、本格的な部隊が投入されたのは12時間後であったという。

まさに致命的な遅れである。20数年前の豪雨の夜、マンションベランダから「市ヶ谷は遅い!」と叱咤した施設隊長の声が耳に蘇る。

 

災害発生の最重要事は、人命の救助である。警察にも消防にも市の職員にも、他にやらねばならぬことはたくさんあるのだから、瓦礫(がれき)の中から市民を救い出す純然たる救命活動は、自衛隊にしかできなかったはずなのである。にも拘らず、部隊の到着は遅れた。

このとり返しのつかぬ空白の時間は、いったいどうしたことであろうか。

以下、決して小説家としてではなく、自衛隊OBとしての勝手な憶測を許していただきたい。

第一に、自衛隊の最高指揮官たる内閣総理大臣にまつわる謎である。「被害状況の把握に全力をあげている」むねの首相談話が発表されたのは、地震発生からほぼ三時間を経過した午前8時45分のことであるが、何はともあれ自衛隊を出動させねばならぬ「状況」であることは、テレビの画面がかなり正確に流し続けていた。県知事からの要請を待たずに出動命令を下すことが、たとえ一種の超法規的措置であったにしろ、さほど勇気を要する決断であったとは思えない。

仮に自治体の機能がその一瞬に失われていたとしても、自衛隊や報道機関や警察や消防を通じて、おびただしい具申(オファー)が官邸には寄せられていたはずである。にも拘らず、政府が有効な指示を下せなかったのはなぜなのだろう。答えは二つしかあるまい。首相およびその閣僚がひどく楽観主義者ばかりであるか、もしくは「出動命令」そのものに本能的な忌避感を持っていたかの、いずれかである。

あるいは、あまり考えたくないことだが、災害出動が空振りに終った場合の政治的責任を意識したのかもしれない。万が一そうだとすると、彼らは自らの政治生命と国民の生命を秤(はかり)にかけたことになり、人間的に無能だということになる。

いずれにせよ他国の大機動部隊が北海道に攻め込んできても、「状況把握に全力をあげている」ような政府ではどうしようもない。この点は全国民がこぞって弾劾すべきである。

ところで、同時刻における現地の自衛隊と自治体の動きはどうだったのであろうか。

自衛隊法第83条によれば、災害派遣は都道府県知事などの要請に基づき、防衛庁長官が命ずる。しかし兵庫県知事が公式にこの要請をしたのは午前10時、災害発生から4時間を経過したのちであった。

謎はいよいよ深まる。彼とそのスタッフが災害時における法的メカニズムを知らなかったはずはない。しかも県庁の旧庁舎は崩壊しており、高層の新庁舎からは市内の惨状が一目瞭然であった。にも拘らず、知事は出動命令を4時間も躊躇したのである。

一方、防衛庁の記者会見発表によれば、出動に至る当日の経緯は概(おおむ)ね以下に要約される。

① 中部方面総監部は午前六時半に、麾下(きか)部隊に対し非常呼集をかけた。
② 同8時台に連絡要員を県庁、各市役所に派遣し、早期の出動要請を働きかけた。
③ 午前10時に県知事から出動要請があった。

中部地方と近畿地方を管掌する中部方面隊の総監部、すなわち軍司令部は、被災地内である伊丹市に存在するのである。実働部隊である第3師団司令部も、至近距離の千僧に置かれている。つまり総監部は麾下の各部隊に待機命令を出したうえで、幕僚を自治体に派遣し、出動要請をするよう督促した。しかしなぜか午前10時に至るまで、要請はなされなかったのである。4時間の空白の間に多くの市民の生命が失われた。
政府にまつわる謎、自治体にまつわる謎、そしてもうひとつ、自衛隊にまつわる謎が続く。

ささいな鉄砲水に自衛隊を派遣した首相は誰か

午前10時にようやく出動要請を受けた中部方面総監部は、なぜか姫路に駐屯する第3特科連隊に出動命令を下す。

特科とは砲兵である。総監部は被災地域の伊丹にあり、同じ駐屯地内には第36普通科連隊という1000人規模の大歩兵部隊がいるにも拘らず、まず出動したのは姫路の砲兵連隊、わずか250名であった。

途中の道路状況と被災地への距離を考えれば姫路部隊の到着が午後1時になったのは当然といえよう。こうしてさらに3時間が空費され、地震発生からつごう7時間を経過して、おそらく災害派遣の経験も少く、他の普通科連隊に比べれば訓練も装備も劣るにちがいないわずか215人の砲兵が、焦土と化した神戸に入ったのである。

方面総監部は、なぜ精強な伊丹連隊を投入しなかったのであろうか。

災害の規模はわかっても被災地域の詳細が不明であったから、とりあえず姫路連隊を西から入れ、伊丹連隊を西宮や芦屋などの東部地域へ、と考えたのであろうか。しかし新聞を見る限り、伊丹連隊が姫路連隊と同時刻に東部被災地で行動を起こしたという報道はない。唯一、少人数で崩落した伊丹駅舎の救出に向かったという記事があるだけである。

政府の不見識、自治体の躊躇、自衛隊の不適切な用兵――ともあれこの3つの謎がもたらした7時間の空白の間に、老いた父母は絶命し、子供らは泣き叫びながら業火(ごうか)に焼かれた。

なすすべもなく父母の名を呼び続け、あるいは生けるわが子の上に押し寄せてくる炎をただ呪うしかなかった親には、憲法も自衛隊法も、選挙も政争もありはしない。そこには生と死しかなかった。謎を合理的に説明して欲しいと思うのは、ひとり私ばかりではなかろう。

豪雨の中に仁王立ちに立って、「市ヶ谷は遅い!」と怒鳴った施設隊長の姿が目にうかぶ。20数年前のあの夜、ほんのささいな鉄砲水に対して自衛隊を動かしたのは、田中角栄内閣であった。

私の最も嫌悪する政治家の実力に思いをいたせば、とまどいを禁じ得ない。

(初出 週刊現代1995年2月4日号)

 
「非常について」が収録されている、抱腹絶倒ときどき落涙の、「読めば元気になるエッセイ集」