まだ誰も答えが出せない「フェイスブックをどうするか」という難題

大統領選とソーシャルメディアの行方
池田 純一 プロフィール

Facebookをどうすればよいのか

となると、そのような一般的に重要な問題が、Facebookという大企業内部の統治構造の脆弱さに起因しているだけのようにみなされている現状自体、本来の問題から目をそむけているだけだという見方も可能だ。

もちろん、Facebookを悪用するものへの処罰よりも、Facebookの管理責任のほうが話題になってしまうのもおかしいといえばおかしいのだが、実際にはその影響力の大きさから、Facebookのコーポレイトガバナンスの巧拙が、そのまま21世紀の「情報社会」のガバナンスに直結しているように扱われてしまう。テストベッドというには、あまりにも巨大すぎる、ということだ。

つまり、事態はもはや一民間企業としてのFacebookの問題を越えて、インターネット以後、あるいはソーシャルメディア以後の21世紀における社会ルールの見直しというところにまで来ており、そのような時代環境の中で、時代は再び「立法」を必要としている。

現代の情報化社会に相応しいルール=規制を、再び人の手で制定しなければいけない段階に差し掛かっている。「コード」に任せるのではなく「法」で対処しなければならない段階だ。

この点で、EUのGDPRは確かに、インターネットユーザーの立場から統治機関が保障すべき権利という形で、先んじて「インターネット後の権利章典」をトップダウンに構成したといえる。

最初から立法で「正解」を引き当てることは難しいかもしれないが、しかし、事態はそのような「暫定解」でもいいから、立法によってまずは枠組みを築いていくことが必要な段階にすでにあることもデモンストレートしている。

 

だが、昨年末から続く連邦政府のシャットダウンに見られるように今のアメリカでは、当の立法機関たる連邦議会が完全に機能不全に陥っている。

そのため、立法ではなく司法で、すなわち裁判を通じて、現行の法の解釈を更新することで対処していく、ということにならざるを得ない。

となると、ではFacebookを具体的にどうすればよいのか、という問いへの回答となる指針が、アメリカで2020年までに具体的に提起されるかどうかはかなり怪しくなる。

そうはいっても、素案がまったくないわけではもちろんない。

「ネット中立性」を提唱したことで知られる法学者のティム・ウーは新著の“The Curse of Bigness”で、反トラスト法の見直しを勧めている。

現在のように、略奪的値付けのような、シグナルとしての「価格」に注目するのではなく、かつてのように構造規制の域にまで踏み出すことを強調する。

ここでの「構造規制」の目的は、単純に、企業間の競争の滅殺ということだけでなく、特定の企業が市場を独占することで、結果としてその企業に隷属するしか選択肢のない雇用者や利用者が増えること自体を、デモクラシーに与えるネガティブな効果として勘案すべきだということにある。

これは、20世紀初頭に活躍したアメリカ最高裁判事であるルイス・ブランダイスの教えに則ったもので、ユダヤ系初の最高裁判事であるブランダイスは、企業の独占を許すことは回り回って人びとが自律的に生活していくための経済的手段を奪うことにつながり、それはデモクラシーの維持のために必要な「声を上げる」ことを抑圧することに繋がってしまう、と考えた。

そこから、人びとの経済的自立を促すような政策を支持したことで知られる。つまり、経済的利得のために政治が譲歩するのではなく、政治が(デモクラシーを維持できるよう)経済を先導すべき、というのが彼の考え方だった。

そして反トラスト法は、政治を経済の上に置く一つの手段だった。これは、マイケル・サンデルが『民主政の不満』で主張していることとも呼応する。