まだ誰も答えが出せない「フェイスブックをどうするか」という難題

大統領選とソーシャルメディアの行方
池田 純一 プロフィール

疑問視されるFacebookという存在

となると2020年を見据えたときに気になるのは、今年2019年に、ソーシャルメディアの社会的な扱われ方について、何らかの変化が訪れるのかどうか、ということだ。

なかでも、今や世界中に20億人のユーザーを抱えるFacebookがどのように社会的に扱われるのか、という主題は、今後を占う上で最も重要なものとなることだろう。

実のところ、随分以前から、ザッカーバーグのワンマン経営で回るはずがない規模にまでFacebookが達してしまっているにもかかわらず、創業者CEOである彼は、いまだにFacebookなる存在の意志を代表するものとしてみなされている。

しかし、昨年生じた一連の不祥事/疑惑をみれば、とうの昔にFacebookがザッカーバーグの制御下から抜け出してしまっていることに疑問を抱く人はいないだろう。

実際、昨年を通じて、Facebookに対する信用は、株価も含めて下降気味で、ザッカーバーグはすっかり議会公聴会の常連になり、彼の退陣論も囁かれ始めた。

COOのシェリル・サンドバーグにしても、いっとき噂されていた政治家への道はほぼ絶たれたといってよい。少なくとも2020年の民主党大統領選に立候補する、などという話は完全に消えてしまった。

それくらい2018年は、Facebookにとって創業以来の苦難の年だった。

〔PHOTO〕gettyimages

春先に発覚したCambridge AnalyticaによるFacebookユーザーの個人情報取得の問題に加えて、年の暮れに明らかになったパートナー企業への個人情報流出問題。さらには、従来の「プラットフォーム」という位置づけを覆し、自ら「メディア」としての役割を果たすべく導入し始めたFacebook内の(私的)検閲基準にまつわる問題。加えて、Facebook批判を強めてきたジョージ・ソロスに対する調査の是非という問題も指摘された。

いずれの問題も、とりわけNew York Times(NYT)が、精力的に、というよりもいささか力が入りすぎなのではないかと思ってしまうくらいに執拗に調査報道を行っている。

マスメディア時代からのジャーナリズム機関の雄であるというNYTの自負からなのか、はたまたFacebookのボーンヘッドのせいで、みすみすアメリカ大統領の職をトランプに渡してしまったことへの憤りからなのかはわからないが、傍から見ている限り、NYTはFacebookを現代の「パブリックエネミー・ナンバーワン」と見ている節がある。まったくもって好意的ではない。

 

とはいえFacebookはFacebookで、そう思われても仕方がないくらい脇の甘い企業となっていることも否めない。

2016年大統領選における「フェイクニュース放置」問題からこの方、様々なアングルからFacebookという存在の社会的意義、そして、その結果としての社会的な影響力について疑問視されてきている。

すでに触れたように、Facebookというソーシャル「メディア」に対する公的責務、あるいは自己抑制の必要性という論点が最も目立つものであるが、それだけでなく、「サービスとしてのFacebook」というよりも「企業体としてのFacebook Inc.」の行動について何らかの縛りを与えることが、さすがに必要な頃合いになったのではないか、という声も大きくなってきた。

これは、モバイル以後に登場したソーシャルメディアの成長株として名高いWhatsAppやInstagramをFacebookがすでに傘下に収めていることへの懸念でもある。

さらにいえば、各種アプリやウェブ上のリソースへの「ゲートウェイ」としての位置づけと、それに伴って生じてしまう企業やユーザーに対する無言の影響力、すなわち一種の「権力」のことも無視できない。

そしてここまでくると、単にFacebookの問題というよりも、それ以上にソーシャルメディア全般、あるいは、スマフォ登場以後のインターネットという日常生活に不可欠になってしまったコミュニケーションインフラ全般に対する課題群とみなしたほうが適切にも思えてくる。

Facebookは、あくまでもその兆候が最もはっきりと見て取れる「現場」の一つでしかないというものだ。