「井上尚弥はすべてが理想形」敗れた元世界王者が語る怪物の実像

怪物に敗れた男たち②
森合 正範 プロフィール

「行かなきゃ」

6回。勢いに乗った河野は細かいパンチで井上を追う。連打でコーナーに詰めた。

「よし、勝負だ」と思った瞬間だった。井上の角度の違う、左フック3発が飛んできた。3発目がカウンターで入り、気がつけば大の字になっていた。必死に立ち上がる。その後も連打を浴び、2度目のダウン。レフェリーが止めた。

プロ43戦目。初のKO負けだった。

「自分もいい感じで打って、前に出ていった。井上君は打たせておいて、カウンターを狙っていたと思う。でも、あれは仕方ない。後悔とか一切ない。むしろ、すっきりした感じ。思い切り挑んで、どうせ負けるなら倒された方がいい。『井上君、お見事』。その言葉しかないです」

声援から一転、悲鳴を上げた。芽衣は夫がダウンするシーンを見たのは初めてだった。心配で居ても立ってもいられない。

「1度倒れて『どうしよう…』と思って、2回目倒れて、『行かなきゃ』と。有明コロシアムの観客席の階段がすごく急なんです。お腹に赤ちゃんがいるので転んじゃいけないし、でも一刻も早く控室に行きたい。結構、慌てました」

焦る気持ちを抑え、足元に注意を払いながら控室へ向かう。すると、夫は記者に囲まれていた。記者会見の途中だった。

元気そうな姿を見て胸をなで下ろす。少しでもいいから話をしたい。しかし、すぐそばにいるのに声を掛けられない。どうしても伝えたいことがある。今すぐこの気持ちを届けたい。携帯電話を取りだし、数メートル先の夫へメールを打った。

「果敢に立ち向かう、その姿に感動しました」

 

二人はトレーナーの車で自宅まで送ってもらった。車内には不思議と爽やかな雰囲気が漂う。同じ敗戦でも4ヵ月前のどんよりとした重い空気とは明らかに違う。河野の気持ちは晴れやかだった。

最強の男・井上尚弥に全力で向かっていき、一瞬でも「いける」と思えた。心も体もこの上なく熱く燃えた。やりきった。敗れてもなお充実感があったのだ。

再生されていたDVDを止めると、河野は「井上君は全部が理想的なんですよね」と羨ましそうに言った。

「今までたくさんの世界王者とやってきたけど、スピードは一番。パンチも一番。パワー、ディフェンス、フットワーク、リズムもいい。全部がバーンと抜けている。普通はパンチが上手い人はディフェンスが悪かったり、どこか欠けている部分がある。みんな井上君みたいな動きをしたい。僕だってそうしたい。でも、できないから今のスタイルになっている。だからボクサーの理想なんですよ」

ボクサーは誰もが最初は井上のようなスタイルを目指す。ところが、短所に気づき、長所で補う。もしくは長所をさらに伸ばして武器とする。そうやって独自のスタイルを築いていく。しかし、河野いわく、井上は全てが長所だという。

「いろんな強い選手とやってきたけど、その中でも抜きんでて強かった。打たせずに打つ。ジャブやワンツーの精度ひとつとっても図抜けていますよ」

ボクシング界に夢を

河野のデビュー戦は黒星だった。決して美しく華やかなボクシング人生ではなかったかもしれない。必死にもがき、苦しみ、諦めずに這い上がり、世界の頂点へとたどり着いた。

この後、3試合を経て、プロ生活18年、昨年11月にグローブを吊した。引退会見では「燃え尽きた」と語り、「井上君は格段に強かった」と振り返った。そして今、ボクサーとしての夢を井上に託している。

「僕と闘ってくれて感謝しています。強さも知っている。だから尚更思うんです。世界へ出て、もっと名前を売って、1試合何億円も稼いでほしい。(フィリピン出身の6階級制覇王者)パッキャオみたいになってほしい。ボクシングって夢があるじゃないですか。それが僕の希望です。すごく楽しみにしています」

取材を終えて、一息ついた。河野と芽衣の横には長女がいる。あのとき、お腹の中にいた赤ちゃんは1歳7ヵ月になった。美味しそうに離乳食を食べている。母となった芽衣がちらりと夫を見て、言った。

「まさか井上君と闘うことになるとは思わなかったし、やってほしくなかったけど、今、井上君がすごく活躍しているのをみると、『ああこの人とやったんだ、すごいなあ』と惚れ直しますよ」

その言葉を聞き、河野は「いやあ、ぶっ倒されたけどね」と照れながら頭を掻いた。二人は顔を見合わせ、そっと笑った。

2019年1月12日、東京・後楽園ホール。会場に乾いた鐘の音が響き渡る。引退式でリングに上がった河野はテンカウントゴングを聞いた。じっと前を見つめていた。