「井上尚弥はすべてが理想形」敗れた元世界王者が語る怪物の実像

怪物に敗れた男たち②
森合 正範 プロフィール

いまでも痛くなる

東京・学芸大学駅近くのイタリア料理店。私は河野と向き合っていた。

DVDプレイヤーで井上戦を再生する。河野は「1年以上見ていない。久しぶりだな。有明は寒かったな」とつぶやいた。

ゴングが鳴る。井上の鋭い左ジャブ、威力のあるワンツーが飛んでくる。アッパーも来た。河野はガードを固めながら距離を詰めようと必死に前へ出る。

「すぐに今まで戦ってきた世界王者とは全然レベルが違うなと分かりました。ジャブが速くて強い。出てくる角度はそれぞれ違うし、まるで矢が飛んできた感じで伸びてくる。あれは普通の選手のストレートぐらい強烈。右ストレートの威力はその3倍くらいありました」

さまざまな角度から次々と矢が飛んでくる。かいくぐり、時に被弾を覚悟しながら、距離を詰め、飛び込むしかない。

「調子がよさそう。もしかしたら、いけるかも…」。観客席から見守っていた芽衣は前戦のコンセプシオン戦との動きの違いを感じていた。

 

徐々に井上のエンジンがかかってくる。2、3回は鋭い矢だけでなく、重い左ボディーも飛んでくる。腹を意識すると、今度は顔面に右ストレート。場内からは井上の動きに感嘆のため息が漏れる。

ただ、河野も前に出て、距離を潰すことだけは忘れない。空振りしてもいい。がむしゃらに右ストレートを放った。

「どんな選手でも3分間のうち、ふと力を抜く瞬間や、打ち終わりにほんの一瞬だけガードが下がる瞬間があるんです。そこに右のノーモーションを打とうと思っていた。でも、井上君にそんな隙は全くない。僕のパンチは見切られていた」

どのパンチだか明確には覚えていない。3回までに左のおでこに食らった右ストレートがものすごく痛かったという。2013年に日本王座をかけて井上と対戦した元WBA、IBF世界ライトフライ級統一王者で、河野と同じワタナベジム所属の田口良一から「井上君のパンチはハンマーのようなパンチ」と聞いていた。

「田口のときより階級を上げているし、もっとパワーがある。すごく硬いパンチなんです。ソリス(ベネズエラ)と闘ったときは瓶で殴られているような感じ。井上君はなんて言うのか、頭が割れそうな、破壊されそうな衝撃。左まぶたの上にもらったパンチは今でもたまに痛くなる。

この前(2018年10月)、井上君がパヤノ(ドミニカ共和国)と対戦して、右ストレートで70秒KOした試合を見ていたら、また痛くなったんです。僕がもらったのと同じ右ストレートだったからだと思うんですけど」

試合から2年、井上の闘う姿を見て、体が当時を思い出し、反応したのだろうか。いや、そんなことがあり得るのか。「うずく」ではなくて「痛くなる」という。

きっと私は半信半疑の表情だったのだろう。河野は「半分気持ちの問題かもしれないけど、半分は本当に痛くなったんです」と言って、再び試合の画面を見つめた。

怪物に抗おうと懸命に前へ出る。4回。強引な接近戦で愚直にパンチを繰り出した。ガードの上から当てる。だが、残り10秒。ボディーから顔面へ右、右、左、右…と重いパンチが飛んできた。必死に堪える。立っているのが精一杯だ。

「井上君はダッシュ力がすごいんです。一発もらうと、その後にまとめてバンバンバンバンと連打が来る。ボクシングって、どの選手でも1、2、3ラウンドくらいまではパンチが生きていて強いんです。特にアマチュアから来た選手はそういう傾向にある。でも井上君は最後までずっと強いパンチでした」

「フーッ…」。芽衣は今でもあの緊張感と恐怖心を覚えている。観客席でラウンド終了のゴングが鳴ると、深呼吸をした。試合の3分間はずっと息が止まっているような感覚。夫と同じく、インターバルの1分で呼吸を整える。芽衣も闘っているのだ。

5回1分30秒すぎ。リング上の主役が井上から河野へと移る。距離を詰め、左、右、左とフックが井上の顔面を捉えた。観客がどっと沸く。引き立て役で終わってたまるか。オレだって前世界王者なんだ。覚悟を持って闘っているんだ。河野公平というボクサーの矜恃。意地だった。

「正直、パンチの感触はあまりなかったです。でも、当たり出したので、いけるかなと。あの井上君のものすごいジャブに入り込めないと思っていたのに、自分の距離になってきた。よし、面白くなってきた。これからだぞ、と思いましたね」

「コーヘイ!」。芽衣は甥っ子たちと無我夢中で夫の名前を叫んでいた。応援団も盛り上がっている。

さあ、いけ、公平!