「井上尚弥はすべてが理想形」敗れた元世界王者が語る怪物の実像

怪物に敗れた男たち②
森合 正範 プロフィール

お腹に宿った新しい命

しかし、河野の胸の内は「井上戦」で決まっていた。

当時の井上は11戦全勝9KO。全階級を通じて最強の呼び声が高いローマン・ゴンサレス(ニカラグア)との対戦が期待されるほどだった。強すぎるがゆえ、対戦相手がなかなか決まらない。オファーは断られ続け、36歳で進退に悩む河野のところに話が回ってきた。

「井上君とやるぞと思ったら、もう一度気持ちが盛り上がってきたんです。みんなが逃げている、そんな強い相手、最強の男と世界戦ができる。これほど熱くなれることはない。僕だってその前まで世界王者。よし、行くぞと。みんなに『やめろ』と言われたし、僕はスパーリングではそんなに強くないけど、試合では燃える。そういう選手だっているんです」

気持ちが燃えたぎっていた。それはここまでの河野の歩みと関係しているかもしれない。

 

世界初挑戦はプロデビューから約8年、25戦目のことだった。その試合に敗れると再挑戦まで2年かかり、3度目の挑戦までまたも2年費やした。やりたくても簡単にはできない。

「これはチャンスなんだ」

誰よりも世界戦の有り難みと重みを知っていた。

何が何でも井上戦を実現させたい河野。一方の芽衣はどうにかして回避させたい。二人の考えは変わらなかった。

「もし、お金のことを考えて、井上君とやるならやめて」

「お金じゃない。世界戦はやりたくてもなかなかできない。この話を断ったら、もう一生できない。強い男と闘わなければボクシングをやる意味がない。こんなにワクワクする試合はないんだ」

普段は温厚な夫の熱い思いがひしひし伝わってくる。芽衣が折れるしかなかった。

それから1ヵ月後、芽衣のお腹に新しい命が宿っていることが分かった。

試合当日の2016年12月30日、河野と芽衣は二人で自宅を出た。タクシーに乗り、有明コロシアムへ向かう。芽衣は妊娠4ヵ月。つわりも酷かった。

夫が井上と闘う。緊張と恐怖心でドキドキが止まらない。夫の表情を伺うと、穏やかで落ち着いて見える。「我が夫ながらすごいな」と感心した。

会場に到着し、芽衣は出迎えに来たトレーナーに夫を託す。

「いってらっしゃい」

「よしっ」

一時の別れ。言葉は短くても、互いの思いは伝わる。芽衣は控室へと歩を進める夫の後ろ姿を祈るように見つめていた。