「井上尚弥はすべてが理想形」敗れた元世界王者が語る怪物の実像

怪物に敗れた男たち②

エリートと叩き上げ

世界3階級制覇王者の井上尚弥(大橋ジム)と元WBA世界スーパーフライ級王者の河野公平(ワタナベジム)は対極のボクシング人生を歩んできた。

井上はアマ7冠を引っ提げ、プロ入り。「怪物」はスピードとパワーの洗練されたスタイルで眩いばかりの光を放つ。

一方の河野はアマチュア経験がない、たたき上げ。華々しい戦績で頂点へ駆け上がることだけがボクサーの魅力ではない。泥臭く地味ながら手数とスタミナを武器に這い上がってきた。

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淡い光は幾度となく小さくなっても、消えることだけは拒む。2015年10月、亀田興毅の挑戦を退けるなど、闘志あふれるファイトは時に光を超える炎となり、ファンから熱い支持を受けた。

快進撃を続ける井上尚弥に敗れたボクサーを取材し、その証言からモンスターの強さを浮き彫りにする「怪物に敗れた男たち」。第1回目は、井上の3戦目の相手をつとめた佐野友樹を記した(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58544)。2回目は井上と最後に闘った日本人ボクサー、河野にすると決めていた。

2016年12月30日。有明コロシアムでWBO世界スーパーフライ級王者の井上尚弥に挑み、6回1分1秒TKOで散った。このときの試合について聞きたいと河野に電話を掛け、企画の趣旨を伝える。その際、私は一つのお願いをした。

「奥様にも同席してもらって、お話を聞かせてほしいのですが」
「えっ、僕の奥さんもですか?」

河野の声がワンオクターブ上がった。

23歳の王者井上と36歳のベテラン河野が拳を交えた。私は井上尚弥というボクサーの凄みを探るとともに、この試合の奥底に流れる河野夫妻の物語も紡ぎたいと強く思ったのだ。

 

やめて。井上君だけはやめて!

はじまりは井上戦の4ヵ月前となる2016年8月31日。WBA世界スーパーフライ級王者だった河野は挑戦者のコンセプシオン(パナマ)に敗れ、4度目の防衛に失敗した。

会場の大田区総合体育館から妻の芽衣とタクシーに乗り、自宅の手前で降りる。蒸し暑さが残る夏の夜道。家まで妻と並んで歩く。河野が疲れ切った声で漏らした。

「もう辞めないといけないよね…」

どんよりとした重い空気が二人を包む。芽衣は夫の問い掛けに何も答えなかった。ただ「もうそろそろ、潮時かも」と心の底では思っていた。

二人の出会いは2012年春、まだ河野が世界王者になる前だった。その年の大晦日にテーパリット(タイ)を破って1度目の世界王者となり、13年5月の初防衛戦に敗れた後、交際を始めた。

その後、河野が2度目の世界王者となり、亀田興毅との防衛戦を控えた15年3月に籍を入れる。芽衣はシンガー・ソングライターみなみらんぼうの長女ということもあり、話題になった。

「私はボクシングに詳しくない。試合前は何もできないので、とにかく邪魔をしないように。減量中のボクサーはピリピリして究極のところにいる。目の前で食べられないし、水も飲めない。神経を使うので自然と痩せちゃうんです」

そんな生活も、もう終わるかもしれない。夫は進退を明確にしていないとはいえ、コンセプシオン戦のダメージが残り、1ヵ月以上、体を動かしていなかった。二人の間にはゆっくりとした平穏な時間が流れていた。

残暑も終わり、木々が色づき始め、ほんのりとキンモクセイの香りが漂う10月の末、突然慌ただしくなった。当時20戦無敗で香港のスター選手、レックス・ツォーから河野のもとにオファーが舞い込んできた。河野が振り返る。

「話をもらって『ちょっとやろうかな』と思いつつ。そしたら(所属の渡辺)会長から呼ばれて、同じタイミングで井上君からも僕にオファーが来たと。(フィリピン出身でIBF世界王者の)アンカハスからも話がある。ほぼ同じ時期に3人のトップボクサーから試合の話があって、会長から『家族と考えて』と言われました」

河野は自宅に帰り、芽衣に「ちょっと話があるんだけど」と告げた。

「レックスの他に井上君からも…」

妻がどういう反応をするのか、河野にはまったく想像できなかった。表情を探り、言葉を続けようとした。

「やめて。井上君だけはやめて!」

芽衣の声がリビングに響き渡る。夫から「井上」という名前が挙がった瞬間、勝手に口が動いていた。

「それまでは彼のボクシングへの思いを尊重したいと考えていたんです。何か相談されたら意見を言おう。それまでは何も言わないでおこう、と。夫の力を信じていないわけではないですけど、さすがに井上君の名前を聞いたら『やめて!』と言ってしまった。井上君のたった一発のパンチで相手がバタッと倒れているシーンを何度も見ていたので、すごく怖かったんです」