2019.01.21

これが戦争の原因か…野中広務が感じた「一色に染まる」日本人の怖さ

同調を強いられ、批判は抑圧された
菊池 正史 プロフィール

日本の精神風土への不信

「あの頃は、国全体が戦死することを讃えて軍国主義一色でした。日本人はパーっと一色に染まってしまう風潮がある。そういう習性を持っているんです」

野中は敗戦までを振り返り、日本人の国民性をこう批判した。同時に、一色に染まってしまった自らを猛省してもいた。

「旧制中学の演説会で学校教育の在り方について批判したものの、怒られたことで、萎縮もしたし、すっかり染まってしまった。恥ずかしながら、絶対に負けるわけはない、いつか神風が吹いて日本は勝つと真剣に信じていた」

弁論大会の演壇から引きずり下ろされた体験は、空気に抗って正直な違和感を吐き出したという意味では野中の政治家としての原点だったが、怒られて矯正されたというその後のなりゆきは「一色に染まる」自分を炙り出してもいたのだ。

 

今考えれば、配属将校とともに野中を降壇させた教師や、そんな出来事を黙って見ていた親たち、そして子供にさえ自由にものを語らせない学校や社会の環境は、異常だったと言うしかない。

自らに対する野中の戒めの言葉は、日本社会全体にも向けられている。何かきっかけがあれば、たちまち一色に染まってしまう日本の精神風土への不信は、野中の脳裏から去ることは生涯なかっただろう。

「鬼畜米英」の戦時下から「米英礼賛」の戦後まで、「一身にして二生」を生きた野中の世代は、真剣に「二生」に向き合えば向き合うほど、そのギャップに苦しんだに違いない。

そして苦しめば苦しむほど、抵抗なく「二生」を受け入れて平然としている人々への違和感を募らせたことだろう。

玉砕も特攻も、300万同胞の死も、しかし、軍部だけの責任ではない。多くの国民がそれを許し、日々支えていたのである。

内心では反対していたと戦後になって言っても、同時代において黙認していた事実は変わらないのだ。戦陣訓(註:1941年に東條英機が通達した訓諭。前回記事参照)が「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」と教える以前に、多くの国民が、捕虜となって生きる者を許さなかったのである。

実際に、戦陣訓が徹底されていない現場も多かったようだ。

満州事変を画策したことで知られる陸軍軍人・石原莞爾は、東條と徹底的に対立し、京都の第16師団長だった時に、冊子となって大量に送られてきた「戦陣訓」を、すべて倉庫に片づけてしまった。

陛下から賜った「軍人勅諭」がすべてだとして、「戦陣訓」を無視したというエピソードを、歴史家の保阪正康が紹介している(『昭和の怪物 七つの謎』講談社現代新書)。

これは、「戦陣訓」を燃やしてしまった大西少尉にも共通する考え方と言えるだろう。

また、前出の山本七平も「私は『戦陣訓』など読んだことはないし、部隊で奉読されたこともない」(『私の中の日本軍・上巻』)と記し、戦陣訓が兵士を魔術のように支配し、捕虜となる兵士に死を選ばしめたというのは、戦後のメディアが作り上げたフィクションだと指摘している。

「何とか生き残れ」ではなく、「潔く死ね」という精神は、けっして戦陣訓だけが強いたものではないのだ。

むしろ、戦争を批判する人たちを「非国民」と罵り、捕虜となった兵士の家族を村八分にするような国民の内面にすでに培われており、戦陣訓はそこに乗じたというのが実態だったのではないか。

* 菊池正史『「影の総理」と呼ばれた男 野中広務 権力闘争の論理』(講談社現代新書)より(ウェブ向けに文章を一部修正しています)

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