大炎上したローラ「辺野古工事中止呼び掛け」をどう考えればよいか

セレブのポピュリズムについて
綿野 恵太 プロフィール

「タメ口」は権力への挑戦

言語学者の田中克彦は日本語の「敬語法」が「権力関係そのものを反映するだけでなく、その権力関係を温存し、形骸化した後もなお強化しつづける」と述べている(「敬語は日本語を世界から閉ざす」)。

つまり、ひとびとは敬語を正しく使うことで、自分が所属する集団の権力関係において自分がいまどの位置にいるのか、を表現し、そしてその権力関係を維持しているわけだ。

敬語を使えない人間は社会人として失格とみなされるし、それはヤクザといった集団でもかわらない。

 

芸能界も厳しい上下関係があることは、お笑い芸人の神経質な敬語を聞くだけでわかる。

先日のM-1グランプリ後のとろサーモン久保田かずのぶとスーパーマラドーナ武智正剛による上沼恵美子への暴言も、「おばさん」「更年期障害」という女性蔑視的な発言よりも、守るべき上下関係を踏み超えたことばかりがクローズアップされた。

たいして「タメ口」とは集団の権力関係を無視する話法である。それは権力への挑戦とみなされる。だからこそ嫌われるのだ。

例外的に「タメ口」で話してよいとされるのは、一人前の存在とみなされない子供だけだ。ローラが画期的だったのは、寺田心といった敬語を話す異様な子供が活躍する芸能界において、その特異なキャラクターによって「タメ口」を話すタレントとして人気を博したことだ。

しかし、そのいっぽうで、ローラをはじめとした「タメ口」の「ハーフタレント」が一様に女性であり、そのうえ「天然キャラ」「お馬鹿キャラ」と評されたことも思い出そう。

「ハーフタレント」の「タメ口」は、「頭が悪い」女性というイメージと引き換えでもあったのだ。

ローラが実際どうなのかは別として、芸能人として「頭が悪い」というイメージを背負ってしまったことは確かだろう。しかし、今回のローラの署名の呼びかけには論理的な一貫性があると思う。それは芸能人というあり方がかかわっている。

〔PHOTO〕gettyimages

「セレブ」はいつ誕生したか

芸能界とはある意味で民主主義的な世界である。フランスの歴史学者アントワーヌ・リルティの『セレブの誕生』によれば、18世紀半ばに「著名性(セレブリテ)」という文化が生まれたとされる。

たとえば、著名人に熱狂するファンといった文化現象は、映画やテレビといったマスメディアの発達に関連付けられることが多いが、リルティによれば、新聞というジャーナリズムが登場した18世紀にすでに存在していたという。

たとえば、啓蒙思想の泰斗であったヴォルテールも、彼の私生活を覗き見したい「公衆」に取り囲まれていたそうだ。リルティは「著名性(セレブリテ)」は近代民主主義的なものだと説明している。

「誰でも有名になれるがゆえに本質的に民主主義的であり、近代の個人主義に完璧に適応しており、一つの社会階級よりも特定の個人に対する感情移入を育むものであり、大多数の人々の選択に完全に依拠している」(『セレブの誕生』松村博史ほか訳、名古屋大学出版会、2019年)

「著名性(セレブリテ)」が民主主義的であるならば、民主主義もまた「著名性(セレブリテ)」の領域となるだろう。「著名性(セレブリテ)」の誕生以後、作家や役者だけではなく、政治家さえも「公衆」の移ろいやすい関心を引かねばならなくなった。

そのためには公衆が求めるイメージを振る舞い、また宣伝や広告によって自分に対するイメージを操作するだろう。リルティが示すのは、近代民主主義はその初めから「ポピュリズム」であったということだ。