新雑誌『講談倶楽部』がじり貧から徐々に売れ始めた転換点

大衆は神である(33)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

創刊から5号を経ても部数は伸び悩み、じり貧の「講談倶楽部」。そこへ、雑誌の発行権をめぐる深刻なトラブルが起きる。

第四章 団子坂の奇跡──窮すれば通ず⑵

懲りたはずなのに

『講談倶楽部』の第2号、3号は、創刊号より2000部減らして8000部ずつ、第4号、5号は7000部ずつ刷った。が、売れ行きは依然として伸びない。

このころ清治は「雑誌をやりながら、これを踏み台にして、ゆくゆくは政界にでも乗りだそうという野心もあった」(口述録より)ので、政界方面の人間たちとの交際をつづけていた。

あちこちで演説会があると、行って演説をし、派手に飲み食いをした。

「(沖縄時代以来)しばらく隠忍しておった自分も、ついにまた昔の放埒(ほうらつ)に帰って大言壮語、暴飲暴食といったようなことで、名家名門に出入りするといったようなことをやっておった」(同)。

当然ながら、野間家の財政は悪化の一途をたどった。こうなったら一攫千金をねらうしかないと、清治は懲りたはずの相場に手を出した。しかし、『米』も『株』も見事にしくじり、借金は10000円以上に膨れあがって、月々の金利が800円ないし1000円に上った。

その金利を払うには、高利の金を借りなければならない。清治は朝4時に起き、白山下(はくさんした)から出る電車に乗ってあちこちの高利貸しを訪ね歩いた。大学に出勤すると、いろんなところから支払いの催促の電話がかかってくる。

資金繰りは「その日その日が決戦で、一日一日どうにか過されればそれでいい」(『私の半生』)というありさまだったから、夜、床についても、明日の金の算段が気になって、なかなか眠れない。

清治が寝返りを打つと、隣の左衛が、

「あなた、『講談倶楽部』はどうなるのでしょう?」

と、心細げな声を出した。清治は、

「どうにかなるだろう」

と、捨て鉢な言葉を吐いた。

3円に困り、アキレス腱まで切る

あるとき、社に出入りする学生が、3円貸してほしいと言ってきた。編集室には『雄弁』や『講談倶楽部』を手伝ってくれている者が4〜5人居合わせたから、その手前、「ない」とは言えない。言った途端に清治は信用を失う。

 

「いくら? 3円! ちょっと待ってくれたまえよ」

清治は3円はおろか50銭も持っていなかった。が、平気を装いながら2階へ上がり、桐生から今着いたばかりの妹・保(やす)から3円を借りて、それを渡した。

『講談倶楽部』の編集主任だった望月茂の回想。

〈そのころの野間さんの財政というものはたいへんなものだったろう。苦しかったことは……私は今でも覚えておるが、あの狭い部屋にある電話で桐生を呼び出すときは、きまって金のことなんだ。あれにかじりつくようにして妹さんの、お保さんという人に、「おい、たのむよ」という切ない声だったな〉

『講談倶楽部』の低迷がつづく5月ごろ、清治は大学の道場で剣道の稽古中、アキレス腱を切った。附属病院で手術を受け、ひと月ほど大学を休まざるをえなくなった。その療養中に『講談倶楽部』の発行権をめぐる深刻なトラブルが起きた。