なぜ幕末最大の謎「江戸無血開城」は教科書でサラッと終わるのか

冲方丁がスリリングに描く「密室劇」

勝海舟と西郷隆盛ふたりの「密室劇」

―『天地明察』(渋川春海)、『光圀伝』(水戸光圀)、『はなとゆめ』(清少納言)と偉人たちの新たな素顔を描き出し、歴史小説ファンを唸らせてきた冲方さん。

今回、3作目になる歴史長編『麒麟児』のテーマに選んだのは、慶応4(1868)年の「江戸無血開城」です。勝海舟、西郷隆盛というスター二人を中心にすえ、スリリングに描き出します。

僕は開城が決まった日である3月14日を、「無血開城記念日」にしたほうがいいと思っているくらいなんです。なにせ、一触即発の状況から一転、講和が結ばれ、戦争が回避される。世界史に照らしてみても、極めて稀な出来事です。

歴史を決めたのは、実質たった2日間の会談。幕府側の責任者だった勝と、対する官軍の代表だった西郷隆盛の交渉はどのようなものだったのか。

交渉は薩摩藩邸の密室で行われたため、実際の様子を知る人は僅かですし、国家機密だから残された史料、文献も少ない。断片的な情報から、痺れるものだったに違いない二人の「密室劇」を紡いでいきました。

 

―勝が「西郷さん、ここで立場を入れ替えてみないかい」と一席ぶったり、西郷の微かな目の動きから官軍の事情を察し、情報網を駆使して切り札を掴むなど、手に汗握る駆け引きが堪りません。

しかし、勝や西郷という傑物がいなかったら交渉が決裂していたかと思うと背筋が凍ります。

もし決裂していたら、東京以北は日本人同士の内戦で荒涼とし、貧富の格差がより大きくなっていたでしょうね。混乱に乗じた欧州列強に統治され、植民地になっていたかもしれません。

これほどの日本史の転換点にもかかわらず、歴史の教科書では勝と西郷の会談の絵画が1枚掲載されて、簡単な説明が添えられているのみ。

あの大河ドラマ『西郷どん』の原作小説でさえ、2ページで終わっている。素晴らしい作品でしたが、そこだけは、林真理子先生に異議を唱えたい(笑)。

時代の「かたづけ役」

―徳川慶喜による大政奉還の後、鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府は、慶喜を追討するための軍を江戸に向けました。

官軍は幕府の領地・財産を求めていたし、軍費を現地調達していたので、江戸が戦場になることは確実でした。対して勝は「焦土作戦」の準備を進めます。

「焦土にされたらそちらも困るだろう」と交渉の材料にするにも、本気で抵抗する気概をみせないと相手に見透かされてしまうので、勝は入念に策を講じます。江戸の人々を人質にして、いわば「自爆スイッチ」に手をかけた。恐ろしい話です。

本作の冒頭でも、勝は「江戸にどう火を放つか」を考え、町火消しの新門辰五郎をはじめ、気脈を通じる江戸の街の頭たちに計画を伝えていきますが、こうした人脈の広さも勝という人の大きな魅力です。

幕府の人間でありながら、西郷をはじめとした倒幕派の諸藩の人間にも尊敬されていたこともそうですし、学者や江戸の庶民、さらにはアーネスト・サトウのような外国人にまで広く知己がいた。だからこそ、大局を見ることができた。

―幕末を描く作品には必ず登場する勝ですが、主人公というより、坂本龍馬や西郷などに知識を与え、道を諭す「脇役」を担うことが多く、勝視点の物語は新鮮です。

勝は、庶民的なタフネスと貴族的な知識を併せ持った人物です。蘭語に長けていたことから幕府で出世し、咸臨丸でアメリカという先進国の土も踏んだ日本トップの知識人でありながら、在野から取り立てられたゆえの骨太な強さが根にある。

そして、不幸な目ばかりに遭うのに、決してめげない。自ら育てあげた神戸の海軍操練所を取り上げられたり、政略ばかり得意で頭が切れすぎる慶喜の不興を買ったり……。勝には次々と苦労が降りかかってきます。

江戸城の明け渡し、将軍の身柄引き渡しを巡る西郷との交渉でも、必死に官軍から7箇条の条件を引き出したのに、幕府からは「一切飲めない。なんとかしてくれ」と言われる始末です。そんな理不尽にも、江戸っ子らしいきっぷで「俺がやるしかねぇ」と挑んでいく。