(立命館大学ポータルサイト「shiRUto」より転載)
「日本人にとってのゲーム」と海外のそれは、いったいどう「違う」のか。
立命館大学ゲーム研究センター・立命館大学映像学部に所属し、国際経営・コンテンツ産業論専門の中村彰憲教授は次のように語る。
「アメリカで競技としてのゲームの歴史が始まったのは1970年代中頃です。米ゲーム大手だったAtari社主催のゲーム大会が行われたり、日本のメーカーである任天堂が大会を主催したりもしました。
一方日本でも、1979年に始まった『ゲームセンターあらし』というコミック・アニメ作品で『大きなモニターでたくさんの観客のもとゲームで戦う』というコンセプトがすでに提示されており、80年代における高橋名人の登場など、ゲームが社会現象になるようなムーブメントも起こっていました。
とはいえ、90年代までは両国ともにソフトや施設のプロモーション的大会が多く、ゲーム大会の目的は『ゲーム企業の収益の最大化』でしかありませんでした」
つまり、90年代初頭の段階では、日米のゲーム競技の発達はほぼ“パラレル”だったのだ。ところがそれ以降、その道は大きく乖離していくことになる。
「アメリカでは家庭用ゲームではなく、PCによるネットワークゲームカルチャーが、ゲーム競技の主流になっていきました。そこにあったのはインターネットで繋がったユーザー同士のコミュニケーションです。これまでメーカーが主宰していたゲーム大会が、ユーザー主導となったのです。
ユーザー主導となることで起こったのは、『どうやってトッププレイヤーを選ぶか』『どうコミュニティを盛り上げるか』という、きわめてスポーツ的な視点です」
ゲーム競技の主体が完全に逆転し、ユーザー主導となったアメリカでは、twich.tvなどゲーム大会を放映するメディアが続々と立ち上がり、NBAをはじめとしたプロスポーツ団体がeスポーツチームを結成するなど、大会の大規模化が進んでいく。
賞金や集客も完全にビジネスモデル化され、現在ではeスポーツのエコシステムが確立している。
一方の日本はどうだったか。実は90年代以降のアプローチが、現在eスポーツが“イマイチ受け入れられていない”現状にも繋がるのだという。
「日本のゲーム産業が非常に強いのは、皆さまもご存じの通りです。一方でeスポーツ業界は弱い。これはアブノーマルな状況だと言えます。
ASEANの国々を見ると、賞金獲得者『数』は日本の方がマレーシアやフィリピンよりも多いですが、賞金『総額』ではマレーシアやフィリピンが日本よりも大きい。日本では法律の問題もあり高額賞金の大会が少なかったのですが、理由はそれだけではありません。
日本のプレイヤーには“賞金目当て”でゲームをプレイするという感覚がほとんどないのです。
では何が目的か。私は『パッション』だと思っています。ゲームに対する純粋な気持ちや愛情が、プレイヤーを動かしてきたんですね」
そこにあるのはゲーム産業大国だからこその「ゲーム愛」なのか、日本人の国民性なのか。そのアプローチは卑下するものではないが、ユーザー主導で価値を捻り出し、ビジネスモデルに変えていくという視点は持たなかった。
現在、いわば“逆輸入”する形でアメリカ型のeスポーツが導入されても、すんなりと受け入れられない原点には、大会の主体が違うことに加え、ゲームとの向き合い方にもありそうだ。