「シャルリ・エブド事件」から4年…共生と分断のはざまのフランス

新自由主義と排外主義とどう付き合うか
伊達 聖伸 プロフィール

新自由主義でも排外主義でもなく

最後に、4年前の自分を思い出してみると、私は2015年1月7日から9日にかけての一連の事件にも、それに続く「私はシャルリ」の大合唱にも、ショックを受けていた。もちろんテロは許されないが、表現の自由を絶対視する風潮にも違和感を覚えていたのだと思う。

そんなときに文芸批評家ツヴェタン・トドロフのインタビューを読んで、我が意を得たりと救われた気がした。実際、彼は事件直後の段階で、「私はシャルリ」のデモに理解を示しながら違和感を表明した数少ない知識人の一人だった。

ツヴェタン・トドロフ〔PHOTO〕gettyimages

トドロフは明確に述べている。表現の自由は絶対的なものではなく、民主主義国家が擁護すべきさまざまな価値のひとつであって、他の価値との関係に置かれるべき相対的なものである。この自由は、社会のマイノリティに対する抑圧としても機能しうるもので、力関係を考えなければならない。

ブルガリアの全体主義的体制を逃れて移民としてフランスにやってきたトドロフは、自由と民主主義の価値を高く評価する。と同時に、自由が道を踏み外し、民主主義が変調をきたす場合もある点を見逃さない。彼は『民主主義の内なる敵』において、新自由主義にも排外主義的なポピュリズムにも批判の矢を向けている。

 

新自由主義は、労働者に「柔軟性」を求め、仕事内容の変更を頻繁に行なう。すると、本来職場で形成されるべき社会的ネットワークや個人のアイデンティティが弱体化してしまう。こうした「非人間化の実践」は、「人道に対する罪」に比べれば地味だが、はるかに頻繁に行なわれており、「人間性そのものを知らぬ間に麻痺させる」傾向がある。

排外主義の克服のためにトドロフは、「外国人の存在が外国人にとってより容易になり、現地人にはいっそう有益になるためには、何をすべきなのか」という問いを立てている。

「過去と現在の偉大な宗教は個人に対して、歓待することを、飢えた者、渇いた者を助け、隣人を愛することを推奨している(周知のように、隣人とは親しい者ではなく遠隔地の人である)。このような推奨は国家に対して行なうことはできない。それでもなお、国家の指導者が外国人嫌いのような原始的な政治的情熱をちやほやすることを控えなければならないことに変わりはない」(大谷尚文訳)

新自由主義も排外主義も、民主主義の進展が逆説的に民主主義を蝕む病的兆候である。とはいえトドロフは、別の体制を待望するのではない。自由が用いられる文脈に注意しながら、民主主義の理念を堅持し、人間性を回復することが重要だと説くのである。

「シャルリ・エブド事件」から4年。この間トドロフは77歳で惜しくも世を去っている。当分のあいだ、新自由主義と排外主義との付き合いを余儀なくされると思われる時代と社会に生きる私たちに、彼の言葉は反芻に値する。