昭和13(1938)年、21歳の頃の三上一禧さん

零戦初空戦に参加! 101歳となった歴戦搭乗員の波瀾万丈の半生

戦争も震災も乗り越えた不死鳥

零戦――零式艦上戦闘機。昭和15(1940)年の制式採用から太平洋戦争劈頭まではほぼ無敵を誇るが、ミッドウェイ海戦以降は米軍の物量に押され形勢は逆転、終戦間際には爆弾を抱いて敵艦に突っ込む特攻機となった、日本航空史上、最も多く生産された航空機である。

78年前、その初空戦に参加した搭乗員が、今年102歳の誕生日を迎える。大正に生まれ、昭和、平成を生き抜き、今、新たな時代を迎えようとしている男は、1世紀を超える人生の中で何を見てきたのか。

 

一方的勝利を飾った零戦初空戦

昭和15(1940)年9月13日金曜日――。

この日、中国大陸重慶上空において、日本海軍に制式採用されて間もない零式艦上戦闘機(零戦)13機が中華民国空軍のソ連製戦闘機、ポリカルポフE-15、E-16(正しくはИ-15、И-16。И-15は改良型のИ-15bis〔И-152〕だが、日本海軍、中国空軍両軍ともにこう呼んだ)、あわせて約30機と交戦、うち27機を撃墜(日本側記録)、空戦による損失ゼロという一方的勝利をおさめた。

新鋭戦闘機にふさわしい、華々しいデビュー戦であった。

零戦はその後、中国大陸上空でつねに一方的な勝利をおさめ、さらに太平洋戦争の緒戦期にも、航空先進国と自他ともに認めていたアメリカ、イギリスをはじめとする連合軍機を圧倒。「ゼロ・ファイター」の名は、敵パイロットに神秘的な響きさえもって怖れられることになるが、その「無敵零戦」神話の始まりこそが、この重慶上空の初空戦だった。いまから78年も前のことである。

試みに、昭和15(1940)年の78年前は、とみると、文久2(1862)年。武蔵国橘樹郡生麦村で、島津久光の行列を横切ったイギリス人たちを、供回りの薩摩藩士たちが殺傷した「生麦事件」が起きた年(旧暦8月21日、太陽暦で9月14日)である。つまり、零戦のデビュー戦は、当時の人が生麦事件を振り返るに等しいほどの、遠い昔の出来事となってしまったのだ。

ところが、この日の空戦に参加した13名の零戦搭乗員のなかで、いまなお存命の人がいる。101歳の三上一禧(かつよし)さんがその人である。

三上一禧さん。82歳の頃、靖国神社で(撮影・神立尚紀)

「零戦初空戦」に参加した搭乗員は、指揮官・進藤三郎大尉以下、白根斐夫中尉、山下小四郎空曹長、高塚寅一一空曹、北畑三郎一空曹、光増政之一空曹、大木芳男二空曹、藤原喜平二空曹、末田利行二空曹、三上一禧二空曹、岩井勉二空曹、平本政治三空曹、山谷初政三空曹の13名。

うち、9名が5年後の昭和20(1945)年8月、太平洋戦争が終わるまでに戦死あるいは殉職し、生きて終戦の日を迎えたのは進藤大尉(終戦時少佐)、岩井勉二空曹(終戦時中尉)、藤原喜平二空曹(終戦時少尉)、三上一禧二空曹(終戦時少尉)の4名のみ。うち藤原さんは平成3(1991)年に病没し、私がインタビューを重ねる機会を得た進藤さん、岩井さんもそれぞれ、平成12(2000)年、16(2004)年に亡くなっている。

昭和15年、中国大陸・漢口上空を飛ぶ零戦。三上一禧さんが、自身が操縦する零戦の写真と、自らの顔写真を、基地の暗室で合成プリントした1枚

ちなみに、日本海軍の戦闘機搭乗員(他機種は含まない)の戦没者総数は4330名。開戦時に第一線配置についていた人の戦死率は8割を超える。

終戦時、海軍には3906名の戦闘機搭乗員が在籍していたが、その多くは教育訓練中、あるいは教育課程修了直後の若い特攻要員で、実戦経験者はその数分の一しかおらず、ましてや「歴戦の」と枕詞がつくようなベテランは数えるほどしか残っていなかった。

その生き残り元搭乗員も、戦後50年の平成7(1995)年には約1100名になり、戦後60年の平成17(2005)年には約600名となり、いまや約150名を残すのみとなった。存命搭乗員の最年長は、大正6(1917)年5月生まれ、101歳の三上一禧さん、最年少は昭和3(1928)年11月生まれの90歳である。

超高齢化社会といわれるが、じつは元零戦搭乗員で、100歳の壁を超えたのは三上さんが初めてである(これまでの最高は、平成28年5月に亡くなった原田要さんの99歳9ヵ月)。三上さんの101年は、まさに波瀾万丈、努力を重ね、奇跡に満ちた一世紀だった。